今日、動画を見てたら、こんな話が出てきた。
アンガールズの田中という芸人が独身時代によくなか卯へ行ってたそうな。そこは50代の店長が1人で切り盛りしていた。
ある時、仕事終わりの遅い時間になか卯に行った時、店内で客は自分一人。あとは店長だけ。注文して食事しようとしていたら、突然停電。店内真っ暗。
店長が、
すみません、すぐに電気つけます
と言っていたが五分経っても付かない。
すると店長が田中のところへ来て、
スイッチの場所分かりませんか?
と聞かれた。
田中は、たぶん客席の外だと思うんで、入っていいですか、と尋ね、入って、更衣室かなんかのそばのスイッチで照明が付いた。
それから何度も同じなか卯に田中は通うんだけど、店長はその停電時のことを話さない。田中も話さない。
たったこれだけの話なんだけど、良いよね、こういう距離感。困った時は助け合う。でも馴れ馴れしくしない。
私の義父は店の人と仲良くするのが好きだったようだけど、私は好きではない。喫茶店とかでもいつも同じ店長がいて、顔覚えられて話しかけられてくると、あまり通わなくなる。チェーン店ならバイトが入れ替わりなので気にしない。
私も自閉症まではいかないけど、忖度希求型ではなく規則探求型なんだと思う。子供は沢山もちたいし家族には責任取りたいけど、家族以外の人たちとしがらみ作りたくない。趣味が合う人と年に一回とかごくたまに会って近況報告して去るとか、そんな関係が気持ち良い。
都会で賃貸生活してればそんな自由も出来てくるし気持ちよい。
これから戦争おこって兵士として軍に入隊して戦地に向かうとか、災害地に救助に行くとか、何か明確な目的があった上での集団行動ならまだ分かるんだけど、学校とか組織としての明確な目標があるわけでもなく、誰かを助ける目的もない。そんな組織に属する意味がわからないんだよね。学校時代、運動会でクラス対抗とか意味わからんかったわ。教員たちが勝手に振り分けたクラスどうしで勝った負けたって、何の意味があるのか。学校って個人の力を磨く為に来てるのに、余計な仕事が多すぎる。
手段と目的を間違えてはいけない。学校は手段であって目的ではない。現場の教員はただひたすら日常を回すだけで一生懸命なんだけど、それって子供のためじゃなくて組織を回して自分の給与が確保される為にしかなっていなかったりするんだよね。
で、学校時代にそれだけクラス内カーストに真剣だった生徒に限って年々同窓会とか来なくなるんだよね。私なんかこれだけドライなのに同窓会は誘われれば行くし、今だに亡くなった教師の墓参りも毎年してる。故人のためもいうより自分の気持ちのために墓参りしてるんだけど。
その場その場で熱を上げたものを簡単に捨てちゃうのをみて呆れることはある。
最上位目標をもって、そのための手段なのか目的なのか。それが大事。
療育とか資産運用って、多くの場合、その視点が欠けてる。何が最上位目標で、そのために今何を手段としてやるのか。いつまで続けるつもりなのか。
その療育でいつまでに何ができることを目指してるの?エビデンスあるの?いつまでに株を現金に替えて何に使おうとしてるの?エビデンスあるの?
どうなって欲しいか目標もなく、ただだらだら続けていくって道を迷いがち。で、それをビジネスとする人たちは、顧客に辞められずダラダラ続けてもらって手数料で稼ぐ仕組みができてる。
最上位目標は、次の本にあった。
死にたかった発達障がい児の僕が「自己変革」できた理由―麹町中学校で工藤勇一先生から学んだこと
最上位目標に、金持ちになりたいとかはなり得ない。みんなが金持ちになれるわけじゃないから。というか、皆んなが金持ちになったらそれだけインフレになって皆んなが金持ちでなくなるだけ。
子供に金持ちになれ、とか親が教えるのは卑しいと思うんだよね。金で他人を奴隷扱いして雑用を外注して暮らせ、とか。学校歴も然り。相対性理論を学んでみろとか源氏物語や法律書読んでみろ、とかいうなら分かるのよ。学問するのに仲間がいると良いから同じ志のおる人の集まる場所へ行けというのも分かる。そういうのなしに、ただ学校歴つけろというのも卑しい。
その怪しさに漬け込むビジネスも存在する。
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