ヒトってつくづく,時代の生き物だなあと思う.

暮らしている時代の風景に依存して生きている.

ちょっと昔の風景もあまり記録に残されていないし,ちょっと未来の風景は分からない.

 

池田隼人(1899.12.3-1965.8.13)(首相:1960.7.19-1964.11.9)

大平正芳(1910.3.12-1980.6.12)(首相:1978.12.7-1980.6.12)

 
所得倍増計画で有名な池田は広島県の海の近くで育った.近隣の漁村には水上生活者(船を家とする)が多く,その子弟は長欠児(長期欠席児童)であったが,池田の両親は彼らと遊ぶことを禁じないばかりか,父は長欠児を寄宿舎に収容して勉学の機会を与えたいと口癖のように言っていた.
大平も香川県の貧農の次男(6人兄弟)として生まれ,若くして父を亡くしクリスチャンとなり,経済的理由から一時大学進学も諦めて化粧品業もしていた.
 
そんな二人が会長・副会長として設立したのが黄十字会である.宮澤喜一も役員だった.
経済的貧困問題,それに伴う親の無理解から長欠児となり学力不振非行化する.そんな彼らを救おうという団体である.
1960年6月に文部省管轄財団法人として認可され,1972年3月に解散した.
 
9年間義務教育が始まった1950年ごろの風景をみてみよう.
1950年のヒット曲東京キッド.美空ひばりが歌う,
右のポッケにゃ夢がある
左のポッケにゃチューインガム
空を見たけりゃビルの屋根
もぐりたくなりゃマンホール
あの世界である.
前年1949年の映画”悲しき口笛”
当時12歳の美空ひばりが演じたのは戦争孤児ミツコだ.路上で生活しもちろん学校は行っていない.
男の格好をした少女で父母とは死に別れ.
たった一人の親戚である生き別れの実兄は音楽をやっていて,戦前戦地に出ていく前にミツコに作曲したオリジナル曲をミツコに授けた.
その曲が”悲しき口笛”だ.
当時幼かったミツコは兄のフルネームも書けないし知らない.兄の顔写真もない.
兄とつながる唯一の手段が,その曲だ.
その曲を歌っていれば,いつか兄が私を見つけて迎えに来てくれる.
そう信じてミツコは日雇い労働者たちの前で歌う.
時にはビアホールで無銭飲食して用心棒にたたかれながらも.
敗戦で日本全体が貧しかった.
親も家も食うものもなかった.
 
 貧しくて食えず勉強機会も恵まれなかった世代が,次の世代は自分らのような苦労をさせないようにと,頑張って動いていった.
 
 
黄十字会が設立から解散までの12年間毎年行い,最も成功したものの一つとされるのが,

長欠援護功労者表彰

である.
推薦母体は都道府県教育委員会で,
推薦対象は
長欠者を通学させることに成功し,或はそのことに泥yくしつつある個人,学校(級),団体
準長欠者を長欠者となることから防止することに成功し,或はそのことにつくしつつある個人,学校(級),団体
・長欠者または準長欠者に友情の手をさしのべて激励している児童生徒の個人及び団体
・長欠者または準長欠者となる環境にありながら,精励している生徒およびその家庭(家族)
である.
 12年間で約4700人が表彰され,彼らによって約8万人が援護されたという.

そんな貧困は戦後時間とともに全体としては解消されていったが,
炭鉱など局地的には貧しい地区の問題へ焦点が移っていった.
そして1960年代から学校恐怖症・学校嫌いという現象が問題視される.
 
長欠児(中学校)は3.87%(1952年)が1.04%(1960年)になっていき,
さらに0.85%(1966年)となる.
 
2022年度の長期欠席(中学校)は3.2%である.
 
また,長欠の理由として経済的理由・精神的理由の割合は
1952年は43.9%,10.7%だったが,
1966年は5.0%,39.2%と逆転した.
 

https://core.ac.uk/download/pdf/304204478.pdf

(表1)

 

1965年8月の会誌”黄十字の友”に初めて登校拒否児の記事が載った.
1966年の会誌記事では,純粋に経済的事由だけによる長欠は,政策上は可決済みだという認識を垣間見せている.
1971年にはその一面トップに登校拒否の記事が掲載された.
1972年3月財団法人黄十字会解散.
 
1970年代は長期欠席者が限界まで低くなり,
学校は行くもの
との認識が強化した.
進学熱もあがっていった.
 
 
 今あるいろんな制度や習慣は,昔はその時代に応じた合理的理由があって形作られてきた.
しかし時代の変遷とともに,その前提がくずれたまま,その制度・習慣が昔の形のまま残っていたりする.
 
 たしかに昔は学校は社会にとって重要だった.勉強したくてもできない子がいっぱいいた.それで苦しんだ世代は,若い世代を救うべく奔走した.
 
 みんなを学校へ
 
しかし,その発想も古くなっていき,多様化の時代へ入ったのが今の日本だ.
 
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