ちょっと他の調べ物のついでに

大平光代さん(1965.10.18-)

のwikipedia

を読んだ.

 

 

極道の妻から弁護士になり

2000年に書いた自伝

だから,あなたも生きぬいて

がベストセラーになった方だ.

 

普段めったに本を読まないうちの母が読んでいた.

その後,政界の役職を辞任し,弁護士の男性と結婚してダウン症の娘を産み,山間地に移住した.

 

その彼女のWikiで目に留まったのが次.

 

中学1年生時の7月に転校したことがきっかけになり、全ての発端となったクラスのリーダー的存在の女子生徒からいじめに遭い、クラス全体からも無視されるようになり「持ち物を隠される」「弁当の中身をひっくり返される」「トイレに閉じ込められて水をかけられる」などの壮絶ないじめに遭った[4]。
中学2年生になり、1年次とは違うクラスになり、親友もできたが、その年の冬に親友だと思っていた同級生たちからいじめられ、自殺を図るも未遂に終わり救命されたが、当時の新聞やマスコミでは僅かに公表される程度であった。両親や学校側の強い要求により中学3年生の新学期に復学し、新しいクラスに入り、当初明るく振舞ったが、前述のいじめ・自殺未遂騒動の影響もあり、それまで以上に壮絶ないじめに遭った[5]。

 

そして中3の14歳で暴走族に入り,16歳で入れ墨を入れ,組長と結婚したという.

 

 イジメは構造的なものだということ.光代さん本人に問題があったと言うより,それはきっかけにすぎず,いじめをする風土がその中学にあったということだ.

 転校したばかりの頃,転校生は最初は珍しいのでいろんな子が寄ってくるが,リーダー格の女子が話しかけた時,他の子と話していて返事をしなかったらしい.それだけの理由で虐めの標的になったという.

 

 そして,イジメは発展していき,自殺未遂までしているのに,共働きの両親と学校は,復学するよう強く要求したとのこと.

 その自殺未遂は割腹自殺で現在でも後遺症が残っているという.

 

これが間違えているよね.

1965年10月生まれで中3春というと,1980年か.

 

 

 学校側は復学させたことに後悔は無かったか?万全な体制があって人権侵害・虐めを防ぐから復学せよ,という意味ではなかったのか.

 全然そんな意味じゃなかったんですね.

 

一命を取り留めた後、結局私は学校に戻りました。「先生がちゃんとしてくれると約束してくれたし、学校に行けへんかったら恥ずかしいから、お願いだ」と母に懇願され、親にまで見放されたくないという思いが強かったので、母がそこまで言うならと、登校したんです。そうしたら、

「死にぞこない」

と。結局、何も変わっていませんでした。
 

 

 

私の時は、「よく話しておいたから、みんなの前で握手して仲直りせい」と(笑)。なんの解決にもなりませんでした。

 

 公務員である以上,建前がある.法律があり憲法がある.そこでは全ての子供たちが義務教育を学校で受ける権利が保障されていなければならない.そこでは人権侵害はなされないように環境を改善する義務が学校にある.

 

 でも,これって建前なんですよ.実際には,学校には構造的にその能力が無い.

 

 本来なら,

君は学校に来ないほうが安全だよ,我々には今君を守る能力が無い

と言うべきな時もあるはずだ.公務員たる教員としては,それが学校が持つ教育の義務の放棄と解釈されることを恐れる.だから建前上では教員から不登校を勧めるわけにはいかない.で,それを親や本人は鵜呑みにしてしまい,学校に行かせてしまう.

 

 人権侵害が起こらないように,と文科省は教育委員会,学校へ指導はすれど,

その構造が変わらない以上,現場ではどうしょうもない.

 現場では教員の質も量も担保できていないのだ.