前々から思っていたことを書く.

 

時代の進歩とともに教育は必要なくなっていくし,いくべきだと思うんだよね.

 

ちょっと話長くなる。


で、そのために将棋を例に出してみる。


もう13年以上前,2010年秋に

女流棋士VSコンピュータ将棋

で女流棋士が負けて,次は米長邦雄永世棋聖(引退棋士・連盟会長)がコンピュータと戦うという話になっていた.

 もっと前だと1996年2月・1997年5月に,チェスで

ディープブルー(計算機)VS Gカスパロフ(当時32・34歳,1963.4-,1985-2000年15年連続世界チャンピオン)

があった.1996年は6戦中3勝1敗2分けでカスパロフの勝ち,1997年は2勝1敗3分けでディープブルーの勝ちとなった.

 

 当時,私はある人と喫茶店で論争になったことがある.その人は人間の方が機械より強い,人間は機械にできないことがあると信じている人物だった.永久に将棋では人間の方が機械より強い,と信じていた.今では信じられないかもしれないが,むしろそういう人たちの方が多かった.喫茶店では1対1の論争ではなく,5・6人で話していたと思うが,私の方が劣勢だった.時代的にそういう風潮だった.

 私は逆の思想をもっていた.人間にできることは何でも機械にできる.そう主張していたし,今でもそう主張している.

 ただ,振り返って考えてみるに,私と彼らとの大きな違いは,客観的な主張の正しさというより,

 機械が人間に勝った時,それを人間の不幸として悲しむか,それとも人間の幸福・進歩として喜ぶか?

という姿勢の違いだったと思う.私は後者だ.これは人類の進歩である.

 人間VSコンピュータ

ではなく,

 メモもスマホも持たない手ぶらの人間VS機械を操作(プログラム)できる人間

の人間同士の対決とみなしていた.

 今の時代,電卓持たずに暗算が得意な人間をどれだけ評価するだろうか,電卓があるなら電卓で,より速く正確に計算すればよい.

 受精時の偶発的な遺伝子構成に依存した生身の人間の技能

にいつまでも頼っていては,人類に進歩は無い.

 羽生善治だって藤井聡太だって,いずれ老いるし死ぬ.彼らの棋力を超える人物が生まれてくるまで待たないと,おなじ質の仕事ができないのであれば,人類に進歩は無い.

 2009年8月に100m走9秒58という記録をだしたUボルトはすごい.これは14年間更新されていない.

 でも1964年10月15日東京オリンピックの時,世界新記録はボブ・ヘイズの10秒06だった.つまりは64年から09年までの45年間でたった0.48秒しか更新できていない.

 

 生身の人間なんて,所詮はこんなものだ.もう45年たった2054年にはもう0.48秒更新して9秒10の記録を出す選手がでてくるだろうか?

 絶対無理だ。


 1987年カールルイスが9秒93出してるから、1987-2009の22年間で0.35秒更新してるから、2009+22=2031年には9秒23の記録が出てるだろうか?

 それも無理だ。


 しかし、おそらく鍛えてない私でも、バイクに乗れば、走るボルトに勝てる。

 テクノロジーが進めば、100m9秒台どころか100m0.29秒だって可能性はある。ちなみに100m0.29秒って音速ね。


 以前ステーブジョブズが動画で話してたんだけど、

 動物たちの中で、最もエネルギー効率よく速く移動できるのは、

コンドル

だそうだ。人間は真ん中くらい。

でも、この話にはオチがあって、

自転車に乗った人間

は、コンドルより効率よく速く移動可能だそうだ。

 走る人<コンドル<自転車に乗る人

ってことね。


 つまり、何らかの仕事のパフォーマンスを上げる目的なら、テクノロジーの進化によって、いくらでも達成できる可能性があるし、それは人間の動物としての能力に頼るべきじゃない。テクノロジーの進化は喜ぶべきことだ。


 ところが、仕事というのは、二面性がある。


続く。



 

 『仕事と教育の行方(2)仕事の二面性』『仕事と教育の行方(1)自転車に乗れ』前々から思っていたことを書く. 時代の進歩とともに教育は必要なくなっていくし,いくべきだと思うんだよね. ちょっと話長く…リンクameblo.jp