江戸城外濠を歩く(神田川浅草橋~神田神社)
-その1 浅草橋~初音の馬場跡)
「新江戸散歩外濠」というシリーズで、御茶ノ水~常盤橋御門跡までを投稿済みです。
1)御茶ノ水~市ヶ谷御門跡
2)市ヶ谷~赤坂御門跡
3)赤坂~日比谷御門跡
4)新橋駅周辺~常盤御門跡
今回、浅草橋(浅草御門跡)~筋違(すじかい)御門~御茶ノ水
江戸城の外郭・外濠をぐるりと、ほぼ1周したことになります。
<江戸城外濠>
今回は、浅草橋御門跡~筋違御門跡~神田明神まで、外濠・神田川沿いを歩きました。
浅草橋・・・神田川が隅田川にそそぎ出る辺り、外濠の終点です。
雉子橋御門~神田橋御門が未投稿なのですが、ほぼ外濠1周です。
「浅草橋~神田明神」その1は、JR浅草橋駅から初音の馬場跡」までです。
◉スタートはJR浅草橋駅、江戸通り(旧日光道中)沿いを歩いて浅草橋へ・・・
ⓢ:JR総武線「浅草橋駅」
①浅草橋(浅草御門跡)②篠塚稲荷神社 ③亀清楼 ④柳橋 ⑤初音森神社 ➅郡代屋敷跡
⑦初音の馬場跡
<JR浅草橋駅東口> いつも人通りは賑やかです。
浅草橋のちょっと手前に「浅草見附跡碑」があります。
<浅草見附跡の碑>浅草御門は実際には浅草橋を渡った向こう側(江戸側)にあったのですが、浅草側に碑が置かれています。
①浅草橋(浅草御門跡)
寛永13年(1636)の江戸総構え工事にて、越前福井藩松平忠昌(家康の次男、秀康の子)が初音森神社の跡地に建造しました。
◉福井藩は浅草橋の浅草側の一角を領有しましたが、後、その地は町人地となり、その一帯は「福井町」と呼ばれるようになりました。
◈浅草橋を渡る奥州道中(日光道中)は、東京駅近辺から浅草花川戸辺りまで、現在は「江戸通り」と呼ばれています。江戸城に向かって行くと、小伝馬町囚獄跡を通り、常盤橋(新常盤橋付近)で外堀通りと交差、東京駅へと通じます。
<浅草橋周辺江戸時代地図>
●江戸通りを歩く・・・ちょい寄り道・・・「人形師 原孝洲」
浅草橋界隈は「人形・吉徳」とか「久月」「秀月」とか有名な人形店があり、「ひな人形・五月人形」の町として有名ですが、江戸通り沿いに「人形師 原孝洲」のお店があり、そこで可愛い人形を見つけました。
お店「原孝洲」は浅草橋駅から浅草橋に向かって「江戸通り」の左側にあります。
<江戸通り沿い 人形店 原孝洲>
<浅草橋> 柳橋方向より撮影
沢山の屋形船が結構整然と並んでいていい感じ。
<浅草御門 江戸時代> (ネットより拝借)
江戸にもこんな門が今でも残っていたら…楽しかったでしょうね。
●明暦の大火:浅草御門で起こったという悲劇
明暦の大火(1657)が起こった時、小伝馬町の牢奉行石出帯刀吉深は囚人たちを「戻って来る」と言う約束の元に解き放ちを行いました。
解放された囚人たちは、逃げまどう江戸住民たちとともに江戸通りを北上し「浅草見附」に迫りました。すると、なんたることか、囚人たちが「浅草見附」に姿を現すや、たちまち「浅草御門」が閉じられ、逃げ惑う避難民もろとも外堀(神田川)の内側に閉じ込めてられてしまいました。「脱獄か」と思った門番が門を閉じてしまったのです。
この非道な判断の結果、多くの避難民が逃げ場を失って焼かれ、あるいは神田川に飛び込んで溺死するという悲劇が起こりました。
このときの反省を受け、幕府は緊急の非難の為、両国方面へ抜ける大橋「両国橋」の架橋を決断しました。
神田川沿い(浅草側)に、ずらり船宿屋さんが軒を連ねています。
浅草橋から柳橋方向:柳橋界隈らしい風情です。
<昭和39年頃の浅草橋> 柳橋方向から撮影されたもの(ネットより拝借)
<浅草橋上から上流方向を見る>
上流に見える橋は「左衛門橋」、江戸時代にはなかった橋で明治8年の架橋。ここに左衛門河岸という河岸があったようで、「左衛門橋」と命名されたとか。
<浅草橋上から柳橋方向を見る>
<スケッチ風>
柳橋方向へ歩きます。船宿が数軒並んでいる。
ちょっと寄り道して左の路地へ・・・篠塚稲荷という神社があります。
②篠塚稲荷神社
◈創建:創建年代は定かではありませんが、社伝によれば、正平年間(1346~1370)に新田義貞の家臣で新田四天王の一人とされた篠塚伊賀守重廣が戦に負けて東国へ落ち延びたのち、庵を結んで出家し、来国光の刀を神前に捧げ主君新田家の再興を日夜祈願したことから、いつしか篠塚稲荷大明神と称されるようになったとのこと。
昭和20年(1945)空襲で被災しましたが、戦後直ちに復興、昭和35年に現社殿が造営されたとのことです。
◉ご祭神:そのまた昔は「咜枳尼天」だったそうですが、現在のご祭神は「倉稲魂神」(古事記では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、日本書紀では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。
◈明治維新の際、変えられてしまったようです。
「咜枳尼天」は仏教系の「稲荷」の神様です。代表例は「豊川稲荷」。
●江戸時代にはお隣に「第六天」を祀る神社があったのですが、蔵前に移転しています。
<江戸名所図会「篠塚神社」「第六天」>
篠塚稲荷神社と第六天は「江戸名所図会」にも紹介されています。
「第六天」神社は「榊神社」と改称の上、現在は蔵前に遷座しています。
<ご参考>:第六天神社:「第六天」というのは「第六天魔王」のこと。
第六天魔王波旬(はじゅん、より邪悪なもの):仏道修行を妨げている魔のことで、「人の楽しみや教化を奪って自らが楽しむ」、故に他化自在天とも言われています。
日蓮宗では『仏道修行者を法華経から遠ざけようとして現れる魔だが、純粋な法華経の強信者の祈りの前には第六天の魔王も味方する』としているようです。
◆織田信長が自ら「第六天魔王」と名乗ったというのは有名な話。
武田信玄が信長に書状をしたためた際、調子に乗って自分の名をテンダイノザス・シャモン・シンゲン(天台座主沙門信玄)と署名しました。これに対して信長は、ダイロクテンノ・マオウ・ノブナガ(第六天魔王信長)、仏教に反対する悪魔の王と署名して返した」のだそうです。
◆秀吉は第六天を極度に恐れ、西日本の第六天神社を尽く廃社にしてしまったそうです。
信長のことはよっぽど怖かったらしい。
◆長野・静岡県以西に「第六天」がほとんど見られないのはその為とか。
③亀清楼:神田川沿いの道を行くと「亀清楼」のビルに突き当たります。
橋のたもとの茶色のビル、老舗日本料理店・亀清楼(かめせいろう)。
かつて多数あった「柳橋の料亭」の唯一の生き残りでしたが、残念、今は閉店してしまっています。亀清楼は角界とのかかわりも深く、横綱審議会もここで開催されていたことで知られています。
江戸時代には、ここに「万八楼」という有名な人気料理屋がありました。
広重が「柳橋夜景」として、万八楼で催されている「句会」の様子を残しています。
<広重「高名會亭畫」 柳橋夜景>
●亀清楼と万八楼・・・
・亀清(亀清楼)の創業は、安政元年よりは少し古いとのこと。
当初の亀清楼は現在地とは別の場所にあったようで、万八(楼)と並存していた時代も長いとのことです。明治に入って、亀清楼が廃業した万八楼の跡地を買収、建物も新築して亀清楼として営業を開始した・・・と推定されるとのことであります。
●嘉永年間(1848~1854)に出されたという「料理茶屋番付」(守貞謾稿)では「万八」「亀清」の両方がほぼ同格の店として紹介されているとのこと。
●万八楼の大食い大会:文化14年(1817)、200人の大食い自慢を集めて開催されました。
大会の種目は、『菓子の部』、『蒲焼鰻の部』、『飯の部』、『そばの部』、『酒の部』の5部門だったとか。
記録に残っているのは・・・以下とか・・・。
◆菓子の部:まんじゅう:50個、ようかん:7棹、薄皮もち:30個、お茶:19杯
◆ごはんの部:68敗、しょうゆ2合
◆蕎麦:63杯(わんこそばではありません・・・とのこと)
◆酒:3升入りの盃×6杯半の人、5升入りの盃×1杯半
<亀清楼と柳橋>
④柳橋:元禄11年(1697)架橋
◈最初の柳橋は元禄11年(1698)に架橋されました。
◈この橋は明治20年(1887)鉄の橋となりますが、関東大震災で崩落し、現在の橋は昭和4年(1929)に架橋されました。
<明治5年の柳橋・・・両国橋を望む。当時両国橋は50mほど下流にあった>(ネットから拝借)
<柳橋上から両国橋を望む>
◈柳橋の賑わい:大田南畝によれば、柳橋に芸妓が登場するのは文化年間(1804-1817)とのこと。
天保13年(1842)、水野忠邦による改革で、深川などから逃れてきた芸妓が移住して花街が形成され、やがて洗練されて江戸市中の商人や文化人の奥座敷となっていったといいます。
昭和3年当時、芸妓が366名ほど。
◈隅田川沿いに位置し、交通の便もよく、また風光明媚の街として栄え、明治期には新興の新橋と共に「柳新二橋」(りゅうしんにきょう)と称されるようになったとのことです。
◈江戸時代には、柳橋の船宿で舟を仕立てて隅田川を上り、吉原へ繰り出すお大尽も多かった。
◈明治維新後、柳橋は新橋と並ぶ花街となったわけですが、新橋は各藩からでて政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々の集まる場所だったそうです。(柳橋畔の説明板)
<昭和36年頃の柳橋>

<江戸(東日本橋)側から柳橋を見る>

橋の欄干には花街に因んで「かんざし」が飾られています。
柳橋を渡って左にいったところに「柳橋の碑」があります。
<柳橋近辺 江戸地図>
⑤初音森神社(摂社)
柳橋を渡り、靖国通りの1本手前の道を右に入っていくと郵便局の手前のビル2階に初音の森神社があります。現在は、本社は墨田区千歳にあります。
創建は古く、元弘2年(1332)藤原大納言師賢が東国に配流された際初音の森に参篭し稲荷大明神を祀ったのが始まりとされています。
元々は浅草見附門付近にありましたが、浅草見附門の建設ならびに馬喰町郡代屋敷建設の為幕府御用地となり、現墨田区千歳に遷宮しました。
昭和25年4月、300年振りに旧跡の一部である現在の東日本橋2丁目に再遷座し今日に及んでいるということです。
本社は日本橋千歳、浅草橋のお社は「儀式殿」と呼ばれ、儀式は当社で行われているようです。
<初音の森神社の階段に、「名馬三日月の像」が置かれています>
像の下には「名馬 三日月 祝 敬宮愛子内親王殿下誕生 平成15年10月吉日」と記されており、天皇家愛子さまご誕生を祝って奉納されたものらしい。
➅関東郡代屋敷跡
関東の幕府領の代官・関東郡代の屋敷があったところです。
天正18年(1590)、家康より代官頭に任命された伊奈忠次の次男忠治が寛永19年(1642)関東の諸代官の統括を任命されたことが始まりで、以来、伊奈家の世襲となっていました。
寛政4年、伊奈忠尊の時、伊奈家御家騒動が起こり、また幕府との間に軋轢が起こって伊奈忠尊は改易となり、以後は勘定奉行が直々差配するようになり関東郡代性は廃止されました。
◈関東郡代は各地での農民の訴訟を取り扱う役所でもあり、各地から民事訴訟の為人がやって来ましたので、旅人宿が作られました。訴訟の為やってくる人が多かったので「公事宿(くじやど)」と呼ばれました。
◉伊奈忠尊
備中松山藩主板倉勝澄の十一男、伊奈忠敬(ただひろ)の娘婿。天明4年(1784)、勘定吟味役上座に就任、これを兼任しました。
天明7年の天明の打ちこわしでは、町奉行を助け幕府の資金なども使い、各地から買い集めた米を江戸市中に大放出することで事態を収拾させました。
折からの天明の大飢饉で米が不作の中、米の収集で手腕を発揮しました。
忠尊相続後、養父忠敬に実子が出来(忠善)忠尊にはまだ実子がなかったこともあり、忠善(忠敬実子)を養子にしましたが、忠尊の側室に実子が誕生するとお定まりの後継を巡る御家騒動が起こり、また、伊奈家が幕府に借金して運用していた貸付金役所が、江戸打ちこわしの時の米の買い付けなどのため期限内に1万5000両を返せなくなり、忠尊と幕閣との間に確執が生じ、寛政4年(1792)、忠尊は改易となり所領没収の上永蟄居となり、養子の忠善も大和郡山の柳沢家に預けられて蟄居となりました。
忠尊の改易により、伊奈家による「関東郡代」は廃され、勘定奉行と代官による支配となりました。後に、幕府は伊奈家歴代の功績に鑑み、伊奈忠治の三男の子孫に千石を与えて伊奈家の名跡を継がせ、この伊奈家は幕末まで旗本として存続した。
浅草橋南詰の交番の横に「郡代屋敷跡」の説明板があります。
⑦初音の馬場
江戸時代、ここには初音の馬場と呼ばれる馬場(跡)がありました。江戸最古の馬場と言われ、
家康が関ヶ原の合戦の時馬揃えをしたところと言われています。
広重がこの場所で「馬喰町 初音の馬場」と言う絵を描いています。
この手前に郡代屋敷があり、絵に見える家々は民事訴訟のために江戸にやって来た訴訟人の泊まる宿(公事宿と呼ばれた)のようです。
こんなところに紺屋の布が干されていたのでしょうか。江戸名所図会にはそんな光景は見えませんが。
馬場の奥(馬喰町2丁目)には火の見櫓がたっていました。名所図会の絵は西の方向(逆の方向)から見た絵のようです。
火の見やぐらには半鐘が吊り下げられ、鎮火すると「ジャン」と1回だけ撞いたようです。「おじゃんになる」と言う言葉はこのことから生まれたとか。
<広重 名所江戸百景 馬喰町初音の馬場>
<江戸名所図会 馬喰町馬場>
続きますでござる











































