大本山増上寺を歩く② 大殿~安国殿~徳川家霊廟 | jinjinのブログ

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大本山増上寺を歩く  

🐾その2 大殿~安国殿~徳川家霊廟を歩く🐾

 

 

 

東京タワーの横の景観的にはちょっと邪魔なビル、あんな風に見えるけど、実は大分離れているんですね。高さ300mを越え、港区?から東京タワーを越えないでほしいと要望がでているんだとか。

写真左端がそのビルです。(恵比寿高層ビルの展望台から)

 

 

 

■大殿

 

増上寺によれば、「大門から大殿本堂に至る道程は、穢土(えど・我々の世界)から極楽浄土に至る世界を表している」のだとか。
「三門をくぐり、煩悩を解脱して、大殿へと向かうと、ご本尊である阿弥陀仏が鎮座、西方極楽浄土の如き、西に位置している点が特徴」ということです。

 

 

<増上寺境内図(現在)>

 

 

<ご本尊 阿弥陀如来> 何とも穏やかな美しい尊像です。

 

この阿弥陀如来様は室町時代の作で、明治42年、旧大殿が火災にあった際、京都知恩院97世山下現有翁より寄贈されたものだとか。 

 

阿弥陀如来のお隣には法然上人像が安置されています。

 

法然上人像>

 

その横に大太鼓と思しきものが置かれている。

 

大殿から出て裏手に回ってみると…「大東京タワー」があたかも仏塔のように聳えています。

 

 

大殿裏手から「圓光大師堂」へと回っていけますが、圓光大師堂は後述・・・

「宝物展示室」を覗いて「安国殿」に向かいます。

宝物展示室の特別展は写真撮影禁止。ここには仏舎利が安置されていますが、それはOK。。。

 

 

■仏舎利:

 

この仏舎利は、釈尊と高弟ラーフラ尊者(長男)、アーナンダ尊者の御舎利だそうで、昭和30年マハボディ寺院館長のパナティッサ大僧正が奉持して来日、昭和31年増上寺に仮奉安、その後いくつかの変遷を経て、令和2年増上寺に奉安されたとのことです。

 

 

 

 

■安国殿

 

戦災で焼失した大殿の代わりに仮本堂としていた建物を、昭和49年大殿再建完成時に大殿の隣に移し、徳川家康公の念持仏「黒本尊」を奉安して家康公の法名をとり「安国殿」としたとのことです。 この安国殿も老朽化が進み現安国殿は平成23年に建立されたものとのことです。

安らかに国になりますようにと・・・

 

 

 

<黒本尊の厨子とお前立黒本尊>

 

 

◉黒本尊 阿弥陀如来

黒本尊は徳川家康が深く信仰し身辺に置いていた恵心僧都作と伝わる阿弥陀如来像です。 

元々は清和源氏の守り本尊でしたが、源義朝(頼朝?)まで伝えられた後、平清盛~常盤御前・源義経~徳川家康の手に渡ったのだとか。
 

家康公は大きな戦の時も片時も放さず持ち歩いて戦勝を祈願し、多くの危難を乗り越えて勝利を得てきたとされています。
金箔の阿弥陀如来像でしたが、長年のお線香の煙で黒くなったことから家康公が「黒本尊」と命名したそうです。

黒本尊は毎年正月・5月・9月の15日に開帳され、黒本尊祈願会が行われます。

 

「黒本尊」を手にした平家の頭領清盛公はこの尊像が清和源氏の守り本尊であることを知り、常盤御前に譲り、常盤御前はそれを牛若丸に与えました。 しかし後に義経は京都を追われる身となり、道中を憂いて三河の長者にこれを託し陸奥まで逃げのびたとのこと。

 

三河の長者は代々これを大切に守り伝え、その末裔が妙眼寺(妙源寺)というお寺を建立して安置、家康がこれを懇願して譲り受け岡崎城に迎え自身の守護念持仏とした・・・とのことです。

 

余談ですが、家康公にはもう一つ「白本尊」と呼ばれる阿弥陀如来立像がありました。合戦の時家康公に代わって矢を受けたという逸話のあるご本尊です。

 

<宝台院 白本尊

 

この白本尊は家康公歿後秀忠公に伝えられ、現在は秀忠の生母西郷の局(お愛の形)の菩提寺である駿府(静岡市)の宝台院に奉安されています。

このお寺は慶喜公が一時謹慎していたことで知られています。

 

白本尊とは言うけど白くはない。(金粉の下に白い胡粉がつかわれていたので白本尊と伝わるそうです) この白本尊は快慶の作と伝わる。

 

◉今はなき黒本尊堂 護国殿

<明治5年(1872)頃>

 

黒本尊堂は本堂の裏手にあり、「黒本尊」を奉安していましたが、明治42年(1909)に焼失しました。

 

安国殿には「黒本尊」の他、皇女和宮像、徳川家将軍位牌、聖徳大子像などが安置されています。

 

<皇女和宮像>

 

<徳川歴代将軍御位牌>

 

<家康公肖像画>

 

 

お隣に、印象深い仏像が奉安されていましたが・・・どなたさまかわからなかった。

頭上に馬らしきものをのせていらしたが、馬じゃない❓?羊??

 

 

 

<安国殿と大殿>

 

 

■徳川将軍家霊廟

 

江戸時代~明治時代、荘厳な徳川将軍家の霊廟が立ち並んでいました。

殆どが戦災で焼失、宝塔だけが残りました。

 

 

 

◉北御霊屋

第6代 徳川家宣(文昭院)

第7代 徳川家継(有章院)

第9代 徳川家重(惇信院=じゅんしんいん)

第12代  徳川家慶(慎徳院)

第14代 徳川家茂(昭徳院) の霊廟・宝塔がありました。

その他、静寛院(皇女和宮)・お江の方(崇源院)・桂昌院(お玉=綱吉生母)天英院・月光院、また徳川綱重(清揚院)の霊廟・宝塔がありました。

◉南御霊屋:

第2代秀忠(台徳院)の霊廟・宝塔がありました。台徳院霊廟惣門が現存しています。

家康・家光は日光に、以外の将軍の霊廟と宝塔は上野寛永寺にあり、15代慶喜は谷中霊園・・・神式のお墓です。

 

戦災で、宝塔を除くほぼすべてが焼失、現在は安国殿の裏手に宝塔が集められ、「徳川家霊廟」となっています。

 

<徳川家霊廟 鋳抜門(いぬきもん)>

元文昭院殿霊廟の宝塔の前にあった門。青銅製で、門の両側に昇り竜・下り竜が鋳ぬかれています。

 

 

<第2代秀忠公・お江の方>   

 

 

<第6代家宣公>

 

<第7代家継公> 公と呼ぶにはあまりにも幼くして亡くなってしまった将軍

 

<第9代家重公>

 

<第14代家茂公と皇女和宮>

 

 

今はこんな感じなのですが、かつては荘厳な建物・門が並び、いずれも国宝に指定されていました。 昭和20年の空襲でほとんどが焼失、昭和33年から詳細な学術調査が行われ、北と南にあった墓所は現在の地に集められ改めて埋葬されました。 

 

明治期の写真をお借りして抜粋・・・

台徳院霊廟については後述(次回に)

 

<文昭院霊廟二天門>

 

<有章院霊廟 霊牌所勅額門>

 

<惇信院廟所拝殿唐門>

 

<慎徳院廟所門>

 

 

<文昭院・慎徳院・昭徳院廟所前>

 

 

徳川家霊廟を後に、光摂殿前~圓光大師堂~経堂前~黒門そして芝公園領域・台徳院霊廟惣門~芝東照宮へと向かいました。

(次回に)