新江戸散歩 江戸城外濠を歩く =金刀比羅宮~虎ノ門周辺= | jinjinのブログ

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新江戸散歩  江戸城外濠跡を歩く (赤坂見附~日比谷御門シリーズ③)

=金刀比羅宮~虎ノ門付近=

                         

アメリカ大使館前で警察官に見送られながら、江戸時代は「葵坂通り」と呼ばれていたらしい坂を下って行きます。 特許庁の前にでますが、ここが「赤坂ドンドン」のあったところ。

広重の絵にある「あふひ坂」そのものは、今はありませんが、その南側に作られた「環二通り」を下って「金刀比羅宮」へと向かいます。

 

<広重 虎の門外 あふひ坂>

 

<あふひ(あおい)坂付近 透かし絵図>

 

 

■金刀比羅宮

讃岐丸亀藩主京極高和(たかかず)が、万治3年に領内の金毘羅大権現の分霊を三田屋敷の邸内社として勧請しました。 その後、延宝7年、藩邸の移転とともにこの場所に遷座しました。

江戸庶民の人気が高まり、文化期ごろから毎月10日に限って一般市民に開放しましたので、参詣人が群集したといいます。

 

 

当社の銅鳥居、信者から寄進されたものと言いますが、鳥居の柱に、朱雀・青龍・玄武・白虎の4神がとりつけられた珍しい鳥居です。

 

 

 

「亀かい?」と言う方がおられますが、亀じゃありません。 「玄武」です。

玄武は中国の神で北方を守護する水神です。「玄」は黒を意味し、五行説で北方の色とされています

 

この金刀比羅宮は赤坂豊川稲荷や人形町水天宮などと同じくいわゆる邸内社であり、大名領国の有名寺社を江戸邸内にその分霊を勧請して人気を博した神社です。 旅行が簡単にはできない時代でしたので、江戸庶民にとっても市中で参詣できればありがたいこと。 藩邸にとっても、収益を高め藩名をも高めることにつながっていました。 当宮は元藩内繁昌社ですので氏子はいません。崇敬者や参詣者の賽銭で今は運営されているそうです。

 

なお、金刀比羅とは金毘羅大権現という神名でもわかるように、元来、インドの仏教守護神であるガンジスのワニが神格化した「クンピーラ」からきているといわれています。

 

◈京極高和:安毛高政の長男。寛永14年(1637)に松江26万石の藩主であった伯父の京極忠高が嫡子を残さずに没したため、その末期養子となりましたが、播磨龍野藩6万石へと減封されました。 万治元年(1658)に近江源氏の同族である山崎治頼の後を受け、讃岐丸亀藩6万石に移封となっています。

万治3年(1660)、讃岐にあり広く信仰されていた金毘羅大権現を江戸三田の藩邸に勧請、参拝を願う江戸の町民に応え、毎月10日には邸内を開いて参拝させました(現在の虎ノ門金刀比羅宮)。

 

金刀比羅宮のお賽銭箱。 金毘羅さまだからでしょうが、丸金のマークは面白いですね。

 

 

こちらが「桜田通り」側の鳥居です。

 

 

桜田通りを歩いて虎ノ門交叉点へまいります。

虎の門交叉点傍に幾つか外濠の遺構・石垣が残されています。

 

■虎ノ門周辺 石垣跡

 虎ノ門交叉点手前を左に曲がったところに「溜池櫓台跡」があります。

 

 

この石垣の傍らにおかれている石垣・櫓台跡の説明板です。

 

櫓台跡というからにはここに櫓が乗っかっていたわけですね。 外濠の石垣に造られた櫓はたくさんあったわけではなく、ここ虎御門と筋違御門、浅草御門の3か所だけだったそうです。

それだけ重要な御門だったことが伺えます。

 

この石垣はどういう位置にあったのか。

ネット画像にわかりやすい図がありましたのでちょっとお借りしました。

 

 

赤坂見附から溜池交叉点までは、外堀通りは溜池を埋め立てた上に作られていますが、虎ノ門交叉点からは外濠を埋め立てた上にはビルが立ち並び、外堀のあった少し南側に並行する形で外堀通りが通されました。 この石垣は図中「A」の地点にあったのでは?ということです。

 

この地点は外濠の内側、内藤右近将監の屋敷に隣接した地点でしたので、角地、櫓を建てるにもふさわしいところで、多分この地点で間違いないように思われます。

 

この石垣跡地点に歩道橋があります。 その歩道橋を渡って、文部科学省側へ廻ります。

 

 

 

文部省構内にも石垣の展示があります。 ここは内庭みたいなところです。

 

 

こちらは道路沿いにある石垣

 

 

虎ノ門駅構内、「文部科学省」への通路途中にも石垣に関する展示があります。

この左手の階段を登っていく。

 

 

展示コーナー

 

 

 

 

外へ出て虎ノ門交叉点を新橋側に渡りますと可愛い「虎の像」があります。

 

●虎ノ門交叉点の「虎の像」

 

 

猫ちゃんじゃございませんにゃ~~。 ガォ~~~だにゃぁ。

 

 

◈虎の像(ブロンズ像)

初代は昭和27年、町名が「虎ノ門」になった3周年を記念して虎の石像が置かれたそうですが、度々壊されることがあったので、2代目としてブロンズ像を骨董品やさんから購入して設置したのだとか。

猫ほどの大きさではありますが、なかなかの迫力です。 作者は不詳だそうですが思わぬ名品かも・・・とのこと。

 

■虎の御門跡

虎ノ門交叉点から桜田通りを少し北に行ったところに虎の御門がありました。

慶長11年肥前佐賀藩主鍋島勝茂により築かれ、堀にかかる橋は土橋で、高麗門と渡り櫓門からなる左折れの桝形門、江戸六口の一つ桜田門から東海道へと通じる重要な御門でした。

享保16年(1731)大火によって焼失しましたが、高麗門、戸張番所、 枡形石垣の塀はすぐに復元、渡櫓だけは復元されないまま明治を迎えています。この見附門も明治維新で取り壊されましたが、この門の名前が、昭和24年、正式町名「虎ノ門」として残されることとなりました。

 

この名称の由来は定かではなく、立派な桜があり、その枝垂れ方が虎の尾に似ていただとか、朝鮮から送られた虎の檻が大きくこの門を広げて城内に運んだためだとかいろいろあります。 諸説の中で、中国伝来の四神思想をうけ、江戸城からみて南西の方向を守る門に「白虎=虎」という名をつけたのではないか、と考えるのがもっとも根拠があると思われます。

 

 

<虎御門>

 

この地にちょっとレトロな建物が建っています。

<旧文部省庁舎ビル> 昭和8年(1933)落成、「保存棟」とは呼ばれていますが、今も庁舎として役割を果たしています。

 

 

 

<江戸六口(五街道+上州道)>

 

 

 

さてここから新橋駅へと歩きます。