芝 増上寺  徳川将軍家菩提寺  Yahoo記事の移行です。 | jinjinのブログ

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三縁山広度院増上寺    =浄土宗=  (Updated:2023-02-01)

 

浄土宗七大本山の一つ
徳川将軍家の菩提寺…6人の将軍が眠る
 
🏠 東京都港区芝公園4-7-35
☎03-3432-1431
🚃 JR「浜松町」駅 徒歩10
  都営地下鉄浅草線・大江戸線「大門」駅 徒歩3~5分
  都営地下鉄三田線「御成門」駅・「芝公園」駅 徒歩3分程度
 
 
<大門>
 
 
<三門=三解脱門>
都内有数の古い建築物…元和八年(1622)の建立…東日本最大級という
表門が「大門」であった頃の「中門」にあたる
 
 
楼上に「釈迦三尊像」「十六羅漢像」などを奉安する
 

 
<三解脱門楼上内部>
 
 
<大殿>
増上寺明治期には苦難の時期を過ごしまた戦災では伽藍の多くを焼失したという
この大殿は昭和49年の再建とのことだが壮大な建物です。
背中に塔として東京タワーを背負う。
 
 
<創建と歴史>
明徳四年(1393)西誉聖聡上人によって開創された「増上寺」は、「徳川家康の国替・江戸入府」により家康と運命的に出会い徳川将軍家の菩提寺となって以後…その役割を担っていくこととなります。
当初は江戸貝塚(平河町)に開創されましが、家康の「風水」に従い…慶長三年(1598)南の芝に移転しました。
丑寅(北東)の方向には…「寛永寺」がおかれたのです。
 
もともと家康公と浄土宗のかかわりは深く、三河松平の菩提寺「大樹寺」も浄土宗でした。
桶狭間の戦いでは今川方の武将として出陣した家康でしたが、桶狭間の戦いで織田信長の奇襲に敗れて今川義元は戦死、家康公も大樹寺に逃れ…まさに腹を割切らんとしたその時同寺の登誉上人に励まされ「厭離穢土(おんりえど) 欣求浄土(ごんぐじょうど)」を掛け声にかろうじて生き延びたといういきさつがありました・・・まさに生死の境目であったという。
 
以来、家康は「厭離穢土 欣求浄土」を旗印にされたと伝わっています。
19歳の時には浄土宗の奥義といわれる「五重相伝」を五日間にわたって受けその教えを深く信仰するようになったといいます。
 
秀吉の命にて江戸へ赴くこととなった家康公は「三河大樹寺」を参拝「いかなる地に赴くも念仏を怠りなく、江戸では同門の増上寺を訪ねよ」とのはなむけを受け、江戸城に向かう途中増上寺・存應上人に会われてお茶の接待をうけ、菩提所のことを申し入れたという
以来、増上寺は徳川家の菩提寺になりました。
 
<大殿阿弥陀如来坐像>
 
 
<安国殿>
大殿ができるまでは借本堂だったが…平成23年再建された
家康公の念持仏「黒本尊」や「家康公の肖像」「皇女和宮像」を奉安する
背景の東京タワーが「五重塔がわり」です
 

 
 
<黒本尊…お前立阿弥陀如来>
黒本尊…同じ阿弥陀如来立像である「白本尊」とともに、家康公の念持仏であった…
今は秘仏で…毎年1月・5月・915日にご開帳されるという。
「白本尊」は駿府(静岡)宝台院というお寺に安置されています。
 
 
 
 
<皇女和宮像>
 
 
<境内の西向き観音>
昭和新撰江戸三十三観音21番霊場の観音様です
 
 
 
 
<千躰子育て地蔵>
  
 
■徳川将軍家墓所
 

 
 
 
<秀忠公とお江の方の宝塔>
 
 
<皇女和宮の宝塔>
 
 
増上寺には…

2代   秀忠公  (台徳院)

6代   家宣公  (文昭院)

7代   家嗣公  (有章院)

第9代  家重公  (惇信院)

第12代 家慶公  (慎徳院)

第13代 家茂公  (昭徳院)

および 皇女「和宮」や「お江の方」…「将軍生母の合祀」などのお墓があります。

 

4代家綱公、5代綱吉公、8代吉宗公、10代家治公、11代家斉公、13代家定公は「寛永寺」

家康公・家光公が「日光」…慶喜公は「谷中霊園」です。

慶喜さんは神式のお墓ですね。

 

もともとの徳川家霊廟は戦災で焼失。残された写真でみると…どれも荘厳な霊廟でしたね。

憎むべきは戦争・戦火です

 

 

<有章院(家継)勅額門>   明治時代 

       
 

 
<有章院霊廟>  明治時代               
 
 
台徳院霊廟惣門
 
 
旧有章院(家継)霊廟二天門
わずか5歳で将軍となり8歳で他界…幸薄い将軍でした。
 
 
■芝東照宮芝公園内にあります)
 
 
 
<増上寺境内>