1 フランシスコ教皇の「問題発言」

3月9日ロイター通信は、スイスのテレビ局RSIとのインタビューで、ローマ法王がウクライナに対し「白旗を掲げる勇気」をもってロシアと交渉することを促すが如き発言をしたと報じた。ロイターの報道は、ウクライナ政府関係者を怒らせ、ロシア政府を喜ばせた。バチカン政庁は、ロシアが先ず侵略を停止すべきである云々と釈明したが、カトリック教皇の今回の発言が、関係国に波紋を投げかけたことは否めない。

 

既に3年目に入っているロシア・ウクライナ戦争において、同じ東方正教会に属するロシア正教会とウクライナ正教会は、キリスト教の最も重要な教えである「隣人愛」ではなく、自国政府への忠誠を前面に押し出し、多くの兵士を戦線に送り込んでいる。どうも宗教は、戦争抑止力を持っているわけではないようだ。

 

筆者はいま久しぶりにドストエフスキー著の「カラマーゾフの兄弟」を読んでいる。ドストエフスキーが描写するロシア正教の神父、信徒、無宗教主義者たちの混乱した姿は、現在のロシア社会でも見られることだろう。信仰問題を通じて描かれる理想と帝政時代のロシア社会の現実との相克は、プーチン大統領の圧政の下で生きる今のロシア社会でも見られることだろう。一方、プーチンへの支持率が高いことは、独立系世論調査機関レバダ・センターの調査からも明らかであり、例えロシア国民の間に様々な意見が存在していたとしても、狭い範囲内での現象に過ぎず、プーチン大統領の権力を冒すほどの運動には発展しないだろう。

 

最近収監中に亡くなった反プーチン政治活動家、アレクセイ・ナヴァリヌイの未亡人ユリアは、夫の遺志を引き継ぐことを明言し、ロシア国民に対し、大統領選挙の最終日(3月17日)に投票所に行ってプーチン以外の候補者に投票するよう訴えている。アレクセイ・ナヴァリヌイに花を手向けるロシア国民の姿は、連日西側テレビで放映されているが、ユリアの呼びかけが成功するとは予想し難い。結局ロシア国内の反政府活動は盛り上がりを示すことなく、プーチン政権は当面安泰だろう。

 

ロシア正教会がロシア国民に与える影響は大きいと言われている。愛国心と宗教心は密接な関係にあり、特に有事にはそれが顕著に現れる。一方、カトリック教徒も多いウクライナでは、宗教と政治の関係が表に出て来ることはあまりないようだ。西側テレビでは、プーチン大統領を「熱烈」に支持するモスクワ総主教のキリル1世の姿がしばしば報道されるが、ウクライナ正教会(キーウ首座府主教庁正教会)やウクライナのギリシャ・カトリック教会の責任者たちの様子はほとんど放映されない。

 

中東問題については、私たちはしばしばスンニ派、シーア派、原理主義的テロリストグループなど、宗教と政治との相互関係から情勢分析を試みている。キリスト教についても、キリスト教各派の紛争は、イエス・キリストが十字架刑に遭った時以降も絶えたことがなく、近世においても、カトリック諸国とプロテスタント諸国間の「三十年戦争」は、宗教戦争から国際紛争に発展した歴史的経緯がある。一方、キリスト教東方正教会については、宗教と政治の相互関係から、国家間紛争を捉える慣習はないようだ。つまり、東方正教会は政治への従属度が高いようだ。

 

キリル総主教のプーチン大統領に対する「追従」の姿勢は苦々しい限りだが、ロシアのウクライナ侵略に「宗教上の対立」の観点を持ち込むことは、誤解を生じさせることだろう。「プーチンの戦争」の実態を理解するためには、徹底したリアリズム立つことが必要である。フランシスコ教皇の上記発言の真意は不明であるが、建設的なものでなかったことは否めない。

 

ロシア・ウクライナ戦争は第3年目に入っており、いつ事態が収拾するのかについて見通しを述べることは難しい。しかし、いずれは和平への模索が開始されることだろう。その際、宗教指導者にとって重要なことは、具体的な和平問題に介入するのではなく、平和の重要性を一般的に説き続けることにあると考える。

 

2 日本人の取るべき立場

 

筆者は最近「元外交官が大学生に教えるロシアとウクライナ問題-賢い文化の活用-」と題する本を出版した。拙著の大半は、ソ連時代の外務省勤務の経験について叙述したものだが、現在のロシア・ウクライナ戦争について書いた個所では、ロシア社会に平和と安定の普遍性を浸透させていくために、文化を賢く活用することを提言している。

 

非軍事的な手段をもって紛争の平和的な解決を探求することは、戦後日本の国是となっている。一方、具体的にロシア国民に訴えていく方法には、大きな制約があることを、認めざるを得ない。何せプーチン政権の下では、政治的発言の自由が全く認められていない。私たちがロシアに赴いて平和の尊さを訴えるならば、即刻逮捕され、刑務所に放り込まれることだろう。私たちが取り得る当面の手段は、「文化」である。しかし、ここから宗教は取り除きたい。特定の宗教に立った上での文化の活用は無用な軋轢を生むだけで、全く非生産的だ。

 

拙著で提案しているのは、SNSその他のデジタル技術を駆使し、プーチン体制批判ではない音楽や文学作品を、ロシア国民に紹介していくことである。具体的な例として、三枝成彬作曲の「最後の手紙」、大江健三郎著の「広島ノート」などを挙げ、それら作品の持つ意義を述べている。読者には迂遠に思われるかもしれないが、今私たちのできることを手掛けていくことが重要と考える。(20240317)