世界的に有名な指揮者の小澤征爾さんが亡くなった。国の内外で同氏を悼む声が続いている。私は音楽に造詣の深い人間ではなく、また、小沢氏と個人的な関係を持っていたわけでもない。一方、1964年から2004年まで外務省に勤務した私の最後の勤務地はウイーンで、しかも勤務期間は非常に短かったが、小沢征爾さんには何回かお会いする機会に恵まれた。その時の思い出をエピソードとして以下に記録しておきたい。

 

1 小沢征爾国立オペラ劇場音楽監督との出会い

2003年2月25日の夕刻ウイーンに到着した私は、翌26日午前、大使公邸においてオーストリア外務省儀典局次長の訪問を受けた。そして3月3日Dr. Benita Ferrero-Waldner外務大臣に信任状の写しを渡し、その後に外交活動を始めて欲しいと要請された。随分手回しのいい手順であり、オーストリアは日本を重視している証左であると感じた。

 

日本大使館で用意してくれたリストに従って、3月3日午後から、あいさつ回りに出かけたり、関係者の来訪を受けたりして、忙しい日々が始まった。そのような中、私は大使館秘書に頼んで、3月10日にはIoan Holender ウイーン国立オペラ総監督にあいさつに出かけた。イオアン・ホレンダー氏は、ルーマニア生まれ、ウイーン国立音楽院で声楽を学んだバリトン歌手だった。歌手としての現役を引いた後、1992年から2010年までの18年間、ウイーン国立オペラの総監督を務めた。

 

ホレンダー氏は私の表敬訪問を歓迎し、冒頭から「日本人は、ピンからキリまで多くいるウイーンの音楽家に大枚をはたいて日本に招待するので困る。日本の記者となると、自分のところに来ては、何かニュース種はないかと探し回るので困る」など、皮肉を交えながらざっくばらんな口調で話してきた。大変面白い人物だった。

 

私から2005年に「日EU市民交流年」が予定されており、日本政府もこの企画をバックアップしている旨を説明した。ホレンダー氏は、大きな関心を示し、Seiji Ozawaと一緒に意見交換するのがいいと答えた。そしてその場で小沢氏に電話をかけ、「いま事務所に日本の大使が来ている。何か用があるそうなので、昼食を取りながら一緒に話を聞かないか」と言って、受話器を私に渡した。私は、短く自己紹介し、「日EU年」について触れたところ、すぐに小沢氏は「3人で会いましょう」と答えてくれた。ホレンダー氏は、ニヤニヤしながら「Seijiは社交嫌いで、特にジャーナリストに付け狙われことを大変嫌がる男だよ」と説明してくれた。

 

3月20日、私は妻とともに、ホレンダー、小沢両氏を旧市街にある日本レストランに招き、昼食を取りながら懇談した。ホレンダー氏は子供を連れて現れた。「息子は日本食が好きなものだから連れてきた」と言って、修学前児童と見受けられるLiviu君を紹介してくれた。リヴィウ君は大人たちの会話には関心を示すことなく、専ら和食に舌鼓を打っていた。

 

「日EU 市民交流年」の話題を巡っては、ホレンダー氏から、2005年から2006年にかけてサイトウ・キネン・オーケストラとウイーン国立オペラが、松本とウイーンにおいてそれぞれシェーンブルグ作曲の「モーゼとアロン」を上演する予定であるとの話があった。そして「日本人クラシック音楽に対する関心は高く、多くの欧米の音楽家が日本で演奏会を開くことは良いことだ。一方、日本産のクラシック音楽・オペラが世界に発信されていないことは残念であり、その意味でも、サイトウ・キネン・オーケストラとウイーン国立オペラの共同企画は画期的だ」と付け加えた。(なお、この意見交換を踏まえ、後日私は外務本省に「交流年」における音楽の重要性を訴えた)。

 

やがて両氏は、3月24日に上演予定のモーツァルト作曲Cosi fan tutteについて打ち合わせを始めた。小沢氏は、何人かのソリストたちの動きが気になっていたようで、2,3の点を取り上げ、留意事項を当人たちに伝えて欲しいとホレンダー氏に頼んでいた。このやり取りを通じて、オペラの指揮というものがどのように難しいものであるかを、私は初めて知った。

 

ホレンダー氏は、私たち夫妻を24日のコジ・ファン・トゥッテ上演に招待してくれた。オケと舞台の双方を観ることのできる特等席で、本場のウイーンオペラを楽しむことができた。このオペラは合唱部分が短く、6人のソリストがソロや重唱を披露するとの構成になっており、小沢氏がホレンダー氏に協力を依頼していた理由がよくわかった次第である。

 

こうして着任早々小沢氏とともにホレンダー氏の人柄に接することのできたことは、その後大使館で文化関係事務に携わる際に、大きな参考になった。

 

2 配慮が必要な文化交流事業

 

オーストリア駐在の日本大使にとっては、文化交流は重要な職務の一つだ。私はホレンダー、小沢両氏と会ったことを通じて、実際に文化を担う人たちの持つ繊細さに触れることができた。

 

小沢氏にとっては、マスコミの目に触れずに健康を維持することが、良い仕事をする上で重要なようだった。指揮棒を振る前は食事も取らないことを知った私たちは、小沢氏が国立オペラ劇場で指揮を振った後に疲れをいやす一助になればと、公演開始前に楽屋に簡単な和食の届けることにした。公邸料理人がいないときは、妻が手弁当を作ったこともあった。

 

後に知ったことだが、日本大使館の若手は小沢氏のテニスの相手になっていた。館員も、小沢氏を取り巻く環境を心得ていたようで、テニスの話を外部に吹聴することはしなかった。このようにして、小沢氏は少しでも緊張を和らげようと努めていたようだ。

 

政府の文化事業は、文化に直接携わっている人たちの協力を得つつ、国際的な交流を促進することにある。担当官は個々の文化人と二人三脚で良い文化交流事業を実施していく。一方、公館長レベルになると、文化行事の成功という果実に目が向いて、文化従事者たちの持つ繊細さなどに対する配慮に欠ける時がある。かく言う私も、ウイーン着任早々こうした傾向を持っていたことを自覚し、その是正に努めることになった。外務省勤務最後の地ではあったが、遅きに失したとは思わなかった。

 

ウイーンに転任する直前の約2年間、私は那覇の外務省沖縄事務所に勤務し、沖縄における米軍基地問題に従事した。その際、多くの米軍基地問題を抱える沖縄県民の持つ微妙な感情について、十分配慮する必要性のあること、「上から目線」が不適切であることなどを、身をもって経験した。

 

最近日本では、少数者への配慮を政治に求める声が高まっている。これは上記の文化交流、沖縄米軍基地問題などとも共通する大きな課題であり、日本全体として克服していくことが求められている。文化交流は前向きな事業である。ウクライナ戦争、ガザ紛争、北朝鮮の挑発行為等々から生じている国際関係の不安定化の中で、官民双方ともに、国際平和を促進するためにどのように賢く文化を活用できるかについて、対策を講じていくべきだろう。

 

3 小沢音楽に接して

 

短いウイーン勤務ではあったが、その間に幾つかの小澤征爾指揮のオペラを観劇した。その中には、リヒャルト・ワーグナー作曲の「さまよえるオランダ人」といった大曲から、オーストリアの作曲家エルンスト・クルシュネクの“Jonny spielt auf” (ジョニーは演奏する)といったミュージカル風の作品まで幅が広いものだった。前者は、正に壮大なオペラであり、演出と指揮のすばらしさに胸を打たれた。なお、本邦ではあまり知られていないと思われる後者の作品は、自由を求めてアメリカに行くという最終シーンがナチスに嫌われた経緯があったそうだ。

 

ウイーンには楽友協会という素晴らしいコンサート・ホールがある。毎年1月1日にニューイヤーコンサートが行われる有名なホールだ。楽友協会ホールの2階には、外交団用の特別コーナーがあり、早いもの順で自由に席に座って、音楽を楽しむことができた。私はカーナーという金融機関出身の会長と知り合いになり、小沢氏指揮ウイーンフィルの演奏を聴く機会があった。

 

2004年2月11日、Anton Bruckner 交響曲第2番のコンサートが行われた。演奏後カーナー会長に案内されて楽屋に行って、小沢氏とあいさつした。同氏は、「この交響曲はとても難しく、疲れた」と述べるとともに、「弁当の差し入れに感謝している」と付け加えた。私から、「最近の分は、妻がつくったものです」と伝えたところ、「有難う」と答えた。

 

2004年2月13日、ウイーンフィルのリハーサルに行き、ベートーヴェン交響曲第3番、アーノルド・シェーンブルグ作曲Pelleas und Melisande ,op5などのリハーサルぶりを見学した。幾つかの細かな調整は行われたが、全体としてリハーサルは淡々と進んだ。14日の本番にも行った。当日の演奏はシェーンベルクがメインで、ベートーヴェンは曲目から外されていた。個人的にはシェーンベルクは苦手だったが、リハーサルの時と異なり、強い感銘を受けた。このコンサートでは、 サリドマイド障碍者のバリトン歌手Thomas Quasthoffが、Gustav Mahler の歌曲第5番を歌った。よくあの体で、と思うほど素晴らしい歌声であった。

 

このように、ウイーン在勤の間に、小沢氏と何回かの接点があった。ウイーンから離任した後、小澤征爾氏と直接会う機会はなかったが、私たち夫妻共に、小沢氏の人柄に触れることができたことを大変光栄に思っている。「世界の小沢」は亡くなられたが、同氏の偉業は音楽史に残ることだろう。私たちのような音楽の素人にとっても、同氏のすばらしさは頭に強く印象付けられている。ご冥福をお祈り申し上げます。