番号をついておくのであった。次からは(2)、(3)と進む。

高桑の訳でL'épuiséとla fatiguéは最初には現象として書かれているが、その次の文章はイの翻訳と同じく人間(正確な単語は「者」)と書いている。これに関してはちょっと考えたい。「尽くされた」と「尽くされた人間」というタイトルの違いが生み出すのが確かにありそうだからである。

もちろんL'という冠詞がそもそも日本にも韓国にも存在しないが、épuiséは形容詞であるため、「形容詞」をやる(者)という意味はどちらも承知している。これをすべて把握するには韓国と日本の数々の哲学書を比べなければならないが、そうすると日本と韓国の哲学においての雰囲気や学術的観念や気風の違いを探さないといけないがそこまでは無理である。だからここで考えたいのは現象とその現象を受ける人という表現がどういう意味を人々に与えるかという、相対的なことに関する自分なりの考え話である。

(いろいろいつか資料を直接または間接的に見つかれば考えが変えたりまた書いたりするかもしれない。)

人の名前を付いている法律がある。実際はそういう法律はない。すべての法律は一番上にある法律の名前(刑法などとその下にある風俗法など)の下には番号が次々付いているだけであるが、その法律が境的な炎上から生まれたもので、それに巻き込まれた被害者、または起こした犯人の名前が報道するとまずマスコミでその名前を中心に報道が行われる。競馬みたいに。(これが報道をこうしてはいけないという批判ではない。こういうのが日常的にあるという意味だ。)よってその法律に名前が「付く」と、人々はすぐその事件を思い出す。しかしそのような仕草が、変だと思ったら、そう考えることはできる。(被害者への批判や犯人への同情でもない)本当に人間が極限まで冷静なら、すべてを哲学や法律だけで語るはずだからである。冷静というのは問題以外をほぼ考えないことである。もちろんこれがいい場合もあるし、悪い場合もある。これがマジでできたらいつか犯行のすべてを数値化して効率的に刑罰を決めることができると考えていた誰かの思想が真面目で研究されていたはずだ。しかし世界は生き物に理不尽である。その理不尽は外の背景に目を通すことを可能化し、人間はそれをもとに進化している。しかしそれが手段として使われるのもそのせいである。

こういうことから、人間は現象と人間のどちらかを好むか、そしてどちらがより冷静なのかに関してちょっとその元を把握できる。しかしそれをどう反映するか、正確に検討するかはいつも本人の能力や判断次第である。だからどちらの翻訳をより好むわけではまだない。しかしこういうのを語る際、新たなテーマが生まれるのである。