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カピバラ日和

東京女子流が大好きです。

 まだ息がある、いつもカピバラです。

 和歌山女子流に行ってきました。

 今回の箱の和歌山SHELTERは人家も見当たらないほど田舎な山中にあり、巨大すぎるイオンと融合している和歌山大学前ちゅう駅の建物の中にあるという、陸の孤島みたいな場所です。
 何だかんだじゃんけん大会のライブは三回とも参戦してるのですが、普段は訪れる機会のない場所を訪ねていくというのも楽しいです。



TGS LIVE 2016 第3回じゃんけん大会優勝県 和歌山女子流


M1 リフレクション
M2 Limited addiction
M3 Liar


 掴みとして活用されているっぽいリフレクション。セカンドアルバムの二大巨塔たるLaとLiarが滑り出しのボルテージを加速させます。


 MC
M4 Regret.
M5 約束
M6 君へ -Royal Mirrorball Mix-
M7 深海 -Royal Mirrorball Mix-


 往年の名曲で第2ブロックを暖めてから8月末にリリースしたばかりの新曲を2曲続けて。


 MC
M8 Never Ever -TJO & YUSUKE from BLU-SWING Remix -
M9 きっと 忘れない、、、
M10 ヒマワリと星屑
M11 Attack Hyper Beat POP


 第3ブロックは、定番曲から最後は安定のAHBPでフィニッシュ。ここまで約1時間15分。


EN1 深海 -Hi-ra Mix-(初)
 MC
EN2 A New Departure


 アンコールは深海の推しリミックスとANDで懐メロ路線から脱皮。総上演時間はおよそ1時間40分。


 新曲をしっかり推しつつも、リフレクションの楽曲にとらわれず新旧バランスよく組み合わせた王道セトリと思われます。そして初披露のリミックスなど微妙なサービスもありつつ。

 観客との距離も近い感じがして、会場の特性上100番より後ろは生首だったようなので不満も多いと思われますが、まあ狭いところに200人がひしめいて音楽を共有する感じはとてもよい。

 メンバーもコンディションがよくリラックスした雰囲気で、君へなどでノリノリのパフォーマンスを見せていました。Laで歌詞ミスがあった気がするのとハウが酷かったのとを除けばアクシデントもなくクオリティの高い進行でした。久々の国内での有料ライブということでかなり気合も入っていたのではないか。


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 で、この成功裡に終わったライブを観て何を思ったかというと、端的には「オレの好きだった女子流は何処へ」みたいな、長ったらしく気持ち悪い話になります。私もそんなに長いヲタクではないのと、あくまで感覚的な話であって「これが女子流のエッセンスだ」などと断じるつもりはありませんので予めおことわりしておきます。

 今年、ひとつ前の私のライブ参戦は2月の渋谷でした。感じた違和感みたいなものをその時に書き記しています

 アイドルと明言せずに活動してきた東京女子流が、アイドルと定義されることを自ら初めて拒み、アーティストあることを宣言したのは2015年。その後、ライブ頻度の低下やメンバーの脱退など不安定な時期を乗り越え、今は活動のリズムが醸成されてきたと感じます。新機軸を打ち出したアルバムを抱えながら重ねた品川ステラボールから今年の頭に至るライブ群は、まさしくその姿を御披露目する場であったはず。(3月は観てないのごめんね。)

 トークスキルはかなり磨かれた気がします。某舞台への出演がきっかけとなり、中江が隠してきた大阪のしゃべくり遺伝子が解放されたのではと思っています(新井サマーも同じ舞台に出てハジケましたがMCのスタンスはブレませんね…)。トークがもっと面白いグループは他にも腐るほどあると思いますが、それはさておき、女子流は脱皮を果たして新たなステージに達したと思っています。

 一方、本分とする歌とダンスのパフォーマンスにおいては、個人的にはグッとこない印象でした。
 それは私自身のヲタエナジーの枯れが原因かと思い、今回のライブの良かったところを他のヲタクにきいてみても、「こにロスを乗り越えたこと」だったり、「昔の曲が懐かしかったこと」だったりでした。感じ方は人それぞれですが、今の女子流が音楽を通して何を届けてくれるのか、その色を強く感じられたライブではなかったように思われます。

 大きなタマネギの下で年齢を公開した2012年12月22日のあの夜、私が抱いていた「年齢不詳のワンダー感」「ローティーンの微妙な背伸びが生むアンバランス感」に変容し、世界観と実年齢のレースがその幕を切って落とされました。
 たとえ年齢が世界観を追い抜いたとしても、更にオトナっぽい世界観を構築するなどして別のアンバランス感を醸すことができると信じていました。それに、彼女たちはパフォーマンスのたびに保存されたローティーンの自分をステージに召喚し、ドリアングレイとなって背伸びした少女を演じ続けるポテンシャルを持っているのではと、期待していました。1つの可能性としては、歌のお姉さんのような存在を想定していました。

 私が、彼女達にしか光らせることのできない女子流らしさだと感じてきたのは、オッサンが歌うような鈍い艶のあるメロディに、ティーネイジャーの淡い心象を独特の角度で切り取った美しい詞を載せる意外性だったり、その世界観を自らの肉体へ素直にインストールして歌ってみせる適応性だったり、黒髪ストレートが一斉に跳ねる光景だったり、それらの絶妙な調和でした。それこそが、何度繰り返し味わってもまだ足りない、私が信奉する東京女子流でした。

 好きな理由を意識することはとても難しく、「不在だけが輪郭を型取るように」これらが整理されたのは他ならない、これらの要素が大なり小なり脅かされるに至ってからでした。


 つまるところ、私の期待は外れ、女子流は段階的にではあるものの確実にそのレースに向き合う姿勢を改め、時の流れに全てを委ねることになりました。つまり、「等身大」と評される楽曲群に代表されるように、実年齢が進むごとにその歩みにマッチした世界観を供給することになりました。
 この判断の市場的な意味について私は語る言葉をもちませんが、とにかく私が聴くべき音楽がそこに無くなったのは事実でした。

 この等身大の新曲群、アレンジ,歌詞,歌声,ダンスなど要素でみれば間違いなく女子流の楽曲と唸る部分もあるものの、組み上げられた状態では私の心にそれほど深く食い込むことはなく、やるせない気持ちになります。音楽の分類や工学的な議論については私の知識が及ぶ範疇ではないため言及しません。とにかく、振り返れば何となくハボナ周辺,確実なところではリフレクション以降についてはコレジャナイ感が半端ないということです。
 ある部分ではマネジメントやプロデュースと私の価値観のすれ違いかもしれません。でも、彼女たちが目指す自分たちの音楽はやはり自分たちと等身大のところにあるというような発言は何度も聞かれたし、何といってもReady GO!とか君へを歌う彼女たちはどこか内側から光を放っているように見える。私の期待は彼女たちの目指す像とは違う幻だったと考えたほうが妥当かもしれない。

 一方、昔の曲を演った場合。
 慣れた芸をそつなくこなしている、その絶対的安定感という意味では彼女達にしか演じられないパフォーマンスかもしれませんが、アンバランス感の残り香が呼び覚ますあの頃の影以上に熱狂を引き起こすものがそこにあるかといえば疑問符がつきます。私がライブ会場に観に来ているのはもしかしたらその部分なのかもしれない。プロダクトの歴史,ストーリー,背景を切り離して尚余りある、生きた訴求力があるかどうか。感じられる人はいるのかもしれない。でも、私がそれに触れることができなかったというのが、素朴な感想です。
 過去の楽曲群が放つ色香は今なお健在で、私は毎日車の中で1~4のどれかのアルバムを今でも流しています。女子流の楽曲に惹かれている状態は、自分でも呆れるほど変化がなく、血肉になっているとも思っています。

 和歌山女子流は結果として、私にとって東京女子流が過去の存在となったことを強く印象付けるものでした。彼女たちのポテンシャルはまさしく無限大で、そこに無限の可能性の未来を見ていましたが、ここにきて女子流の姿を量子論的に語る段階が終わり、ニュートン物理学が支配する形而下の視点で捉える必要性が高まってきたということなのかもしれません。
 でも若い。彼女たちはあまりに若い。
 何者であるかをこちらから決めつけることなく、適度な距離感で付き合っていきたいと思います。