重ねて申し上げますAstalight*のいつもカピバラです。
東京女子流、ららぽーと豊洲の2daysフリーライブからテアトル新宿を回すという裏2days行程でした。
女子流の新曲Say long goodbyeはとてもすき。全員の気持ちが間違いなく一つのベクトルに乗っていると確信できる楽曲。初回は、これまでの女子流の楽曲との違いに面食らい、そして習練度に若干の不満がありましたが、歌い重ねる度に輝きが増している気がする。とくに山邊さんがライブバージョンとして音源と意図的に変えてきている部分があったり、常に変化し続ける東京の名を冠する東京女子流にむしろふさわしい一曲ではないか。
さて、昨日、13日は上映前に「おとぎ話みたいな少女文学」と題し、文藝に掲載された「君を得る」のテキストリーディング。堀越千史さんの朗読にのせて木村仁美さんのダンスが入ることで、銀幕の中の山戸ワールドが現実世界に再構築されたかのような、奇跡の3D上映。何と言っても、当たり前のように流れる有馬センパイの生演奏。
上映終了後に山戸監督と有馬センパイのショートコント(?)があって、そこでの監督の言葉を以下に。
「もっと大きな映画を撮りたい。あの頃、言葉にしない限りは無いことになっていたあなた自身が、今のあなたの心の中に生まれるような、そんな映画を撮っていきます。」
本日は同郷(愛知)のカンパニー松尾氏を迎えてのトークショー。この濃度がすごい。
以下、このたびも敬称略ですいません。
松尾「山戸監督のエンドロールって、物語と別なものを撮っていますよね。全作品がそう。これがすごく好き。この人、こんなことまで考えてるの、って。」
山戸「ドキュメント的な手法で撮る先輩監督が多いんですが、それに追随する気にならなくて。ドキュメンタリタッチのフィクションっていうのは、結局よくて現状の再生産にしかならないんですよね。だから私はより強いフィクションによって現実を浮かび上がらせようと。あのエンドロールはお見送りなんです。映画のフィクションを現実にも食い込ませたいと思っていて。映画が終わって、エンドロールで落ち着いたところで、フィクションを入れて、油断しているところにどこまでもフィクションが追いかけてきますよって。」
このエンドロールの工夫については、6月に松本でトークしたときにも言及がありましたね。
あの娘~では、後日談みたいのが描かれて、主人公の舞子を快く思ってなかったクラスの女子たちが、アイドルデビューした舞子の歌う曲をカラオケで歌っている様子や、グラビア撮影をする舞子の様子が映し出された。
本作では、しほと新見先生が腕を組んで商店街をスキップしたり、ペアルックで鍋をつついたり、最後は新見先生がしほのダンスを見て涙を流したり。
5つ数えれば~では、女子流メンバーがプールサイドでわちゃわちゃと走り回ります。
松本では確か「リアリティライン」という単語を使って、映画本編のフィクションから現実に戻ってくる途中に別のフィクションを挟んで着地させることですぐには逃がさない、みたいなことを言っていたような気がします。
松尾「この映画を観て、趣里(しほ)は俺だと思った。」
山戸「源泉のレベルにおいて、ってことですよね。」
松尾「俺と、魂の在り処が同じだって思った。」
山戸「それは一歩進んだ男性の考えなんですけど。私は父親も、恋人も、好きな男性はいるんですが、私がこういう作品を撮ると、女性が男性をブッ殺していくみたいに解釈されることもあって。でも、男性を客体にしてそこに何かをぶつけようということではないんです。客体となっている女性が変わったら、主体である男性も変わらざるを得ないはずだから、客体を変えてみたい、ということなんです。例えば、しほみたいに男性的な面をもつ女性がいてもいいな、と思ってもらえれば。」
松尾「AVは本来男性向けで、普段は女性のことは意識しない。『テレクラキャノンボール』も同様で、女性を晒し者にしているようにとられる部分もあって、当初は批判を覚悟していた。でも、自分の知る限りネットでそんなに攻撃されたりもしていないし、むしろ女性から「男子の普段見られない世界を知れた」などと盛り上げてくれた。今のコンテンツは去勢されすぎている。女性には女性のものを用意しなくてはいけなくて、たとえばマカロンとパンケーキみたいな。でも、女性からしてみれば、そうやっていかにもなサービスをされることに抵抗を覚えることもあるのでは、と。そういう意味で僕の映画はマカロンとパンケーキどころか、毒みたいなものです。性別とか関係なくて、それは人間として好きなものが何かってこと。今の時代、女性は男性より行動力があって、それが『テレクラキャノンボール』の反響の中では強かったから、女性の反応が目立っただけのこと。」
山戸「性別じゃなくて、人間だよって、ロマンティシズムですよね。日本は”空気を読め”というハイコンテクスト(文脈の抽象度が高い)な社会で、その中だと映画も現状の再生産になってしまう。」
松尾「行間を読むとかね。邦画って、変なニュアンスみたいのを察するというのがあったりするけど、山戸監督作品は洪水のように喋りまくるから心地よい。山戸さんは、監督であり、破壊者であり、挑戦者。」
山戸「松尾さんっておおらかですよね・・・私なんて24時間怒りに満ち満ちていて・・・それはもっと面白い映画を撮らなきゃって怒りなんですけど・・・」
松尾「ロックが世界を変えるといっても、世界はそんなに変わらなくて。でも、それは気持ちの問題。山戸監督は映画界を変えると思う。変えてください。」
山戸「そうですね、私も毒みたいなものなんで。」
松尾「山戸さんは薬も大いにあるでしょ。」
山戸「そうですね、良薬口に苦しということで、苦いものを作っていきます。言葉っていうのは言語学的には男性がつくりだしたもので、その言葉で女性を語ると、絶対にメタ的なものになって、ジェンダー論に行きついてしまう。こんなことを言うとジェンダーババアなんですが、私は別に男性を制圧したいとかじゃなくて、女性のもつ男性的な面に目を向けることで、女性も男性ももっと生きやすくなるんじゃないかな、って。マカロンだけじゃくてカレーもあるんだって、思えればいいのかなって。女性の中に男性性があって、男性の中に女性性がある。」
松尾「あの娘~の宣伝は処女性をテーマにした?」
山戸「女性は生まれたらまず母親が好きなはずなんですが、その後、必ず”とっておきの女の人”に出会うんです。恋愛というような名前もついてなくて、その段階にあることを、女性のこととして”処女”と表現した。そういう試みでもあったんです。」
この場合のメタをどう解釈するかがはっきりと自分の中で定まらないんだけど、ニュートラルなものと捉えられている「言葉」の本質が実は男性であるがゆえに、女性について語ろうとすると、それそのものになることはできなくて、あくまで女性を記述・表現する言語に成り下がってしまう、ということかな。だからあえて「処女」という言葉を女性から湧き出す言葉として使って、それそのものを記述しようと試みたのかな。
松本のトークイベントだったか、誰も知らない状態で目を引きたいがために処女という言葉を使った、などとコメントしていたことがあった気がする。その裏に、こんな意味の模索があったなんて。
そして最後、山戸監督から皆さんへのメッセージが。
「ウソをついても、自分より賢い人は騙せないと思っていて。今、会える監督とか言われて、人の欲望を引き受けるような役回りになっていて、自分はプレイヤーになってるなぁと思うんですが、触れ合って溶け合うことより、話せばその言葉がバリアーになって、引かれてしまったりするんです。私のことはキチガイだと思ってくれていいから、シンパシーよりもワンダーをもって作品に出会ってほしい。精一杯のワンダーを、女性にはシンパシーを、お届けします。」
シンパシーとワンダーの使い分けというのも面白い。
監督の人柄とか存在とか会って話して感じるものは、本当にあるとすればそれは女性のシンパシーであって、観てワンダーを感じてもらえるような映画を作っていきますという、意思表示かな。
でも、男性の中にも女性性があるならば、それはある部分でシンパシーとして表出するんじゃないかなあ、と思うわけです。
松尾監督に便乗するわけではありませんが、僕も、高崎さんは自分だ、と確信したクチです。
どうでしょう。