死後も仕える・・・その想いとは | Love the life you live❤️

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世界遺産 日光の社寺は

二荒山神社、東照宮、輪王寺の二社一寺で構成されています。

 

中でも家康が祀られた日光東照宮が有名ですが

建設当時は今のような豪華絢爛キラキラな社殿の姿ではなく、簡素な神社でした。

 

それは家康がこのような遺言を残していたからです。

 

「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、

日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀りなさい。そして、八州の鎮守となろう」

 

それを、二十一回忌法要に備えて
豪華に大造替したのが家康の孫・3代将軍 家光です。

 

家光は48歳で亡くなりましたが

家康を大変尊敬していたので

死後も家康公に仕えるという遺言を残し

 

当時11歳であった家光の息子家綱(4代将軍)が

叔父の保科正之や老中らの助けを借りながら

わずか1年2ヶ月の突貫工事で輪王寺大猷院を建造しました。

 

家康公(東照宮)を凌いではならないという家光の遺志により

金と黒を使用し重厚で落ち着いた造りで

目立たない部分に技巧が凝らされているのが特徴。

その大猷院は、東照宮の鬼門を見守るように建っています。

 

家光は何故これ程までに家康に深い敬愛を持っていたのか?

 

それは、家光の生い立ちが深く関係しています。

 

家光は、両親・弟と深い確執がありました。

 

幼い頃から病弱で、吃音もあり、容姿もあまり良くなかった家光は

後に大奥を統率する事になる乳母・春日局に育てられます。

 

弟と比較され、両親からの愛情を感じられずに育った子供時代は

どんなに辛かった事でしょう・・・

12歳の頃に自殺を図ろうとしたエピソードもあります。

 

ただ、春日局と祖父の家康からは可愛がられていたので

その点は救いであった事でしょう。。

 

一方、弟の忠長は利発的で可愛らしい子供だった為

両親の寵愛を一身に受けて育ち、次期将軍として期待を掛けられます。

 

が、春日局の働きもあり、家康は家光を世子に定め

家光は第3代将軍に就任する事になるのです。

 

家康が亡くなってからも

家光の夢には何度も家康が出てきて、会話をしたそう。

 

家光にとって家康がどれ程大きな存在であったのか。。

 

その想いを想像してみると、切ない気持ちになるのでした。