【何の陋しきか之有らん】(子罕第九) | つねにコーチであるために

つねにコーチであるために

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人として生ききることを目指している。
つねにコーチであるために、一期一会一日一日を大切に歩んでいます。

(子罕第九)

子曰わく、君子(くんし)之(これ)に居(お)らば、何(なん)の陋(いや)しきか之(これ)有(あ)らん。

 

【訳】

先師が言われた。

「君子がそこ(東方の未開の地)に住めば、 だんだん野蛮でなくなってゆくよ」

 

*明の王陽明は、三十五歳の時に、故あって言葉も通じにくい僻地に左遷されたが、暫くして地元の人は彼の仁徳に懐き、僅かの間に相協力して龍岡書院という学校を建てた。その中の一室を論語のこの章から取って「何陋軒」と呼び 、「何陋軒記」を掲げた。中江藤樹はこれに共鳴して浄書した。

 

<論語が醸すコーチング>

【何の陋しきか之有らん】模範となる人がいれば、どんなに卑しいところであろうとも、その人の影響を受けて改善されて行くので、コーチはクライアントの行動が周りにプラスの影響を与えると信じて、クライアントの話に耳を傾け行動をサポートしている。