クリスティーナがフレゥールの町から戻ってから、二週間程が経った夏の月二日の事だった。春の暖かさは何処へ、オヴリヴィアの静かな街にも、うだる暑さが訪れ始めていた。
とはいえ、旅館の中は過ごしやすい気温を保っているので、リックとクリスティーナは以前と変わらぬ様子で開店の支度を少しずつ始めている。
今日もまた、フレゥールからモニカが花を届けにやって来る日だった。こちらへ着く頃には汗をかいて大変だろうと思い、リックの気遣いで開店前に風呂に湯を張ってやることにしていた。
リックがふと窓の外に目をやると、どうやら雲行きが怪しくなってきているようだった。先程までは白い雲の合間に眩しいほどの青空が見えていたが、所々黒みを帯びた雲が散らばって見える。
夏の月に入ると、オヴリヴィア街、フレゥール町、パンタシア町を連ねるこのイルクオレ大陸は天候が不安定になる。午前中は晴天であっても、その後の天気がどうなるかは予測がつかない。
雨が降り始める前に、こちらに到着すれば良いが…。リックはそう心配しながらも、モニカが来るのを待った。
その頃のモニカは、夏空の下、汗を身にまといながら歩いていた。手には大切に育てたムーンドロップの花が、生き生きと太陽を見上げていた。
以前届けた花が、どうやら旅館『ドロップ』を訪れた客から好評だったらしく、まだムーンドロップの育つ時期にもう一度お願い出来ないか、とリックから連絡が入ったのだ。その知らせを聞いたモニカは、大喜びでムーンドロップを育てた。
胸を弾ませながらオヴリヴィアに向かっていると、モニカの右手に汗とは違う一滴の雫が伝った。それを敏感に感じ取ったモニカは、目を細めながら先程まで晴れ間の見えていた空に首を傾ける。
「やばっ!雨だ!」
ポツポツと降り始めた雨と、段々と数を増やしていく雨雲から逃げるように、モニカはオヴリヴィアへと向かう足を早めた。
外で雨粒が地面や葉を叩きつけるような音を聞いて、リックは再び窓の外を覗き込んだ。
「結構降ってきちゃったね…。モニカさん大丈夫かな」
先程見えていた青空などもうそこには無く、黒い雨雲だけが夏の空を埋め尽くしていた。時々強い風が吹き付けては、戸を叩くように窓を鳴らす。もしかしすると台風が近いのかもしれない。不安そうに二人はモニカの到着を待っていた。
雨が降り始めてから数十分程した頃。旅館の扉をノックする音が響く。その音を聞いて、リックよりも早くクリスティーナが扉を押し開けた。
「うわっ!びしょ濡れじゃねえか!」
扉の向こうに立つその人を見て、クリスティーナは驚きの声を上げた。
クリスティーナの後ろから、リックも姿を現す。
「モニカさん、大雨の中すいません…!ティナ、すぐにタオルを持ってきてあげて」
モニカを一先ずロビーに上げながら、妹にそう指示するとクリスティーナは急いで奥の部屋へ向かった。
「リックさん、すまん!せっかく綺麗にしてあったのに床、濡らしちゃって…!」
自分よりも旅館を気にかけてくれるモニカに、リックも慌てて「大丈夫ですよ!」と返した。
「これ、頼まれてたムーンドロップ!結構濡れちゃったけど…でもなんとか綺麗な状態のままで届けられて良かった!」
嬉しそうに話すモニカの腕には大事そうに花が抱えられていた。黄色く丸みを帯びた花弁に、小さくて真珠のような透明の粒がキラキラと光っている。可愛くて元気なその姿は、モニカが育てた花にしか表せないものだった。
「ありがとうございます…!やっぱりモニカさんの育てた花を見ると元気が出ますね」
雨で濡れたその花たちをモニカから受け取ると、うっとりとした表情で見つめた。
ロビーに小さな足音が響く。顔を上げると、真っ白なタオルを手にしたクリスティーナが戻ってきた。
「とりあえずそれで頭拭いて。あと風呂も出来てるから入ってけ」
タオルをモニカの手元に差し出すと踵を返して、浴場へと案内する。慌ててクリスティーナを追いかけながら、モニカは声を上げた、
「え!?風呂って…大丈夫だよ!申し訳ないし!それにお金とか…!」
「つべこべ言わずに入れ馬鹿。あと金も取らないから安心しなよ。あたしが勝手にやった事だ」
モニカの言葉を遮ってそう言いながら、クリスティーナは浴室の戸を引いた。大きくて煌びやかな鏡や照明が目に刺さって痛い。
扉の前で立ち往生するモニカを無理矢理押し入れるとすぐさま戸を閉め、その向こうでクリスティーナが声を掛ける。
「濡れた服も洗濯して乾かしておくから、そこの籠にでも放り込んでおいて。それまでは代わりにバスローブでも着といてよ。じゃ、十分後に取りに来るからさっさと入っちゃって」
モニカが口を開く隙すら与えずにそう説明すると、足音を少しずつ小さくしながらその場を去っていった。
「へっくしょい!!」
扉を見つめたまま立ち尽くしていたモニカだが、冷えた身体に身震いしていると気づき、彼女らの好意に甘える事にした。
風呂場の戸を引くと、広すぎる浴場を白い湯気が立ち込めていた。一人でだだっ広い温泉に浸かるのは何だか落ち着かないな、と思いながらもモニカは入浴の支度を始めた。
クリスティーナの入れる湯は、不思議と活力が湧いてくるような効力があった。入浴剤などの特別なものは一切使っていないのか、香りもなければ湯の色も透明すぎるほどに透き通っている。天然の湯でここまで効力が出るとは、一体源泉は何なのだろうか。
ぼーっとしながら湯に浸かっていると、もう十分も経ったのか、扉越しにクリスティーナの声が聞こえた。
「モニカ、湯加減はどう?」
「あっ!え、えっと、めちゃくちゃ良いよ!疲れが吹っ飛ぶっていうか!」
「そう、なら良かった。風邪ひくと良くないからちゃんと温まって髪も乾かして来なよ」
「おう、サンキュな!」
それを最後に、クリスティーナの返事は聞こえてこなかった。
しっかりと身体を温めたモニカが風呂から上がりロビーへ向かった丁度その時、一際大きな風が吹き付けたのが分かるほど、扉や窓が音を立てた。
「モニカさん、おかえりなさい」
「お風呂めちゃくちゃ良かった!本当にありがとう!……外、大分荒れてきたな。今日中におさまるかなあ…?」
不安げに窓の外を眺めるモニカの横顔を見て、リックは思いついたように言った。
「今晩は泊まって行かれたらどうですか?今日は予約のお客様もいませんし、こんな天気じゃ近場を通った旅の方くらいしかいらっしゃらないでしょう。部屋もたくさんありますし…どうですか?」
リックはそういう人柄なのか、勧めるというよりは大歓迎するような笑顔でモニカに提案する。
風呂まで用意してもらって、さらにこんなに豪華な旅館に泊めてもらうとなるとモニカは大分迷っていたが、洗濯から帰ってきたクリスティーナが「こんな大荒れの天気の中、自ら外に出るなんて馬鹿がする事だよ。キミの服も乾いてないし風呂に入った意味もない。返って風邪ひくぞ」と言われ、モニカは一晩泊まっていく事に決めた。
初めて会った時からお世話になりっばなしだなあ、とモニカは少し引け目を感じ、何か手伝える事はないかと聞いたが、ゆっくり寛いでいてくれと返された。しかし、普段こんなに豪華な場所に立ち寄らない彼は、寛ぐどころかなかなか落ち着く事が出来なかった。
リックの言う通り、この日は客足が少なかった為、忙しさに追われる事はなかった。
