天駆ける(19) 検証・特殊攻撃機『桜花』 | 前世の記憶を辿る Past life memories

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元ブログ『前世の記憶』の続き。
前世の記憶では前世以外のカテゴリーも様々書きましたが、本ブログは、
前世関係に特化させたいと思っています。

零戦紫電改(※局地戦闘機)etc…聞いたことのある名の

戦闘機が、海軍の装備機であることがわかった。

--特攻兵器として開発された 『桜花』 も、海軍内部

での発案だった。

局地戦闘機:昼間、軍港や前進基地を爆撃機による爆撃や

偵察機による偵察から守るための、陸上の飛行場から発進

する戦闘機のこと。一般的な要撃機要撃戦闘機防空

戦闘機などにあたる。

 

着想は

 

桜花〜Wikipedia 抜粋

航空偵察員大田海軍少尉が、日本陸軍が母機(爆撃機)から

投下する遠隔操作・無線誘導・ロケット推進の対艦ミサイルで

ある無線誘導弾を開発中との情報を得て、製作担当の三菱

名古屋発動機製作所から設計の概要を聞きだし、誘導装置の

精度が悪く実用化にはほど遠いと知り、誘導装置を人間に

おきかえるのが一発必中を実現する早道だと確信して、大田が

東大に足を運んだところから軌道に乗る。

しかしながら、無線誘導弾はジャイロ安定装置と遠隔操作用

無線機器の不具合により計画破棄されたものの、並行して

開発が進められていた川崎開発の同型誘導弾が結果的に

実用化の域に達しており、空襲の影響から実戦投入は出来

なかったものの終戦までに150機が量産されていた。

またさらに陸軍では対艦誘導弾として、赤外線自動追尾式の

自動吸着弾や、音響自動追尾式の自動追尾誘導弾も並行

して開発を行っている。

当然ながら、陸軍が組織的に開発していたこれら

四種の対艦兵器は機械を誘導装置とする

先進的な無人誘導兵器であり、人間を誘導

装置とする海軍の有人対艦兵器たる『桜花』

とは全く異なる物である。

大田の相談に乗ったのが東大航空研究所の小川教授だった。

実験に協力した谷東大教授によれば 「昭和十九年夏、東大

航研で小川教授から新しい依頼があった。小川さんは広い

見識と温かい包容によって声望が高く、外部から持ち込まれる

相談の窓口の役割を余儀なくされていた。その僅か前に、大田

海軍少尉が火薬ロケット推進の特攻機の着想を持参し、海軍

上層部を動かすための基礎資料の作成を依頼していたのである。

私に求められたのは、木村助教授の描いた三面図を基に、風洞

実験の助けを借りて、空気力学的特性を推定することであった。

仕事自体はさほど困難ではないが、特攻機が

母機を離れた後は、生還の可能性の全くない

ことを知って私はたじろいだ。」 という。

1944年5月、大田は司令(海軍航空隊)の菅原中佐に桜花の

構想を明かす。

菅原司令は、海軍航空技術廠の和田中将に電話で桜花の検討を

依頼、菅原の推薦によって太田は桜花を提案した。

航空技術廠、三木技術少佐の戦後証言によれば、和田はもう決めた

様子で、大田が「自分が乗っていく」と言うため、

研究に協力したという

和田は航空本部二課長伊東中佐へこれを進達した。

伊東は「私は、大田氏が操縦者であるなしを質さなかった。大田氏

自身が操縦者であり、己が真っ先に乗る立場に立ち

うる者でなくして、必死兵器を進言できるはずが

ないと思い込んでいたからである。誠に迂濶千万

であった。私は操縦者の意思の代表として、彼の発案の実現

促進に努力する腹を決めた」という 。

1944年6月20日前後、筑波海軍航空隊で、司令中野大佐が海兵

出身の戦闘機教官7、8名を士官室に集めて戦局の悪化を明らか

にし、「一度出撃すれば生還し難いが、成功すれば戦艦でも空母

でも撃沈確実の新兵器のことで生還可能性が絶無である以上、

上官からの命令はできないので搭乗員の意見を聞くことになった」

という趣旨の説明があり、志願者が2名以上あれば兵器として採用

すると断って志願を募った。

桜花の初陣は、1945年3月、九州沖航空戦であった。

1945年3月21日、神雷部隊(特攻部隊)は第一回神雷桜花特別攻撃隊

を編成、沖縄を攻撃中の米機動部隊に向けて出撃させた。 出撃から

30分も経たない内に、23機の護衛戦闘機が故障等により帰還、合計

30機になってしまった。護衛戦闘機の離脱が相次いでる事、また、

その後の索敵で、先に発見していた目標の機動部隊は3群に分れて

いた内の1群であり、3群合計で7隻以上の空母を発見、当初の見込み

よりも遥かに戦力が大きい事も判明し、一部の参謀から野中隊へ

帰還命令を発するよう宇垣中将に進言があったが、宇垣中将は

「神雷部隊は今や敵の目前に迫っている。すでに必殺必死を

誓っている若い連中を呼び戻すに忍びない」と言ってこれを

聞き入れなかった。

 

一式陸攻に搭載された桜花 

 

 

特攻兵器発案者 大田海軍少尉 抜粋

1945年8月15日終戦。16日、渋川(東工大航空科学生・空技廠

実習生)によれば、大田は「軍令部も航空本部にもあちこち足を

運んだが、俺のような者の言うことなど真面目に聞いてくれな

かった。東大の小川さんだけです。真剣に聞いてくれたのは」

「こんな形でやるんなら真先に自分を行かせてくれと上申した

のに駄目でした」と楽しそうに話していたという。

8月18日、茨城県の神ノ池基地において零式練習戦闘機に

突然乗り込んで離陸、そのまま行方不明となった。基地の机に

「東方洋上に去る」と遺書を残した。大田は、新聞に桜花の

発案者として華々しく取り上げられて以来、不遜な態度をとる

ようになっていた上、桜花搭乗員の人命を軽視する発言も

行っていたため、報復を恐れていたという説もある。

1945年9月5日付で722空司令渡辺大佐から大田の本籍である

山口県へ「海軍軍人死亡の件報告」を送る。殉職Bとして大尉に

昇進。戸籍抹消。

しかし、 大田は基地から離れた金華山沖の洋上に着水し、漁船

に救助され生還。行方不明者として名乗り出ることもなく、戦後の

混乱に乗じて別人を装っていたが、生涯無戸籍のままであった。

別名を名乗り各地を転々とした後、大阪市で家庭を持ち二人の

子供を儲けたが、無戸籍のため職を転々とした。

1945年末、静岡県の海軍共済組合住宅に住む川合(大田の偵練

教員)の近所に、安田少佐が大田一家を連れてきて「大田は生きて

いるらしいが、戦犯を心配して逃げ回っているそうだ、宜しく頼む」

と川合に話した。

大田本人も来て「今は樺太の引揚者として別の名前になっている」

というので川合は妻時子の入婿になればいいと勧めたが、「実は

他に女がいます。子供も一人」と答えた。大田は北海道で密輸

物資をソ連領に運んでいると言っていた。時々北海道から来て、

時子との間に二人の子供を作った。三男が生まれる前後の

1949年6月に北海道へ小豆を買いに行くと言って大金を持って

消えてからは音信不通になった。そのため妻時子と三人の子女が

残されて困窮し、川合が捜索願を出したりした。

1994年12月7日、癌で死亡。墓石には妻の姓のみ刻まれており、

大田自身の名は一切刻まれていない 。

 

一式陸攻から切り離される桜花

 


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