鞠山藩
何故この 鞠 という文字が視えたのかーー
理由は不明ーー何故なら、私はこの藩名に心当たりが全く無いからだ。
そもそも 江戸時代の 藩 に興味など持ったことがなく、かつて、司馬遼太郎の幕末モノ
を読んだ時ーー坂本龍馬や、新撰組などのーー土佐藩だの~~後は忘れて何も出てこな
いが、わずかばかりの藩名を見た ぐらいの記憶しかない。
ともかくも、この藩について調べてみたーー
敦賀藩(つるがはん)は、越前国敦賀郡(現在の福井県敦賀市)を支配した藩。
別名を鞠山藩(まりやまはん)と言うそうだ。
敦賀藩史
より
敦賀(鞠山)藩
越前国敦賀の地は豊臣時代には大谷吉継が城主として5万石を領して
治めていたが、吉継は関ヶ原役で西軍に与し戦死した。関ヶ原戦後は
越前福井藩領に組み込まれたが、大坂の陣後に若狭小浜藩主京極
忠高に与えられ小浜藩領となった。
忠高は寛永11年(1634年)閏7月に出雲松江24万石に転封となり、酒井
忠勝が武蔵川越から若狭小浜に入り、敦賀も酒井氏の支配下に組み
込まれた。
忠勝の跡を忠直が継ぎ、その忠直が天和2年(1682年)に死去すると嫡男
忠隆が遺領を相続したが、忠直の遺命で忠隆の弟忠稠に1万石を分与
して敦賀藩を成立せしめた。
これが敦賀藩の始まりで、藩領は越前敦賀郡内5千石、近江高島郡内
5千石であった。
貞享4年(1687年)に敦賀郡赤崎塩込を鞠山と改称して陣屋を造営した
ために鞠山藩とも呼ばれていた。
藩主は代々定府であり、陣屋も少数の役人が常駐するだけであり、実
質的な支配は本藩である小浜藩の預り地として行なわれていたが、四代
忠香の宝暦9年(1759年)から本藩から独立しての直接支配が始まったと
される。
しかし小藩であったために財政難に喘ぎ、安政6年(1859年)に再び小浜藩
による支配に戻そうとしたが、領民の強い反対にあって中止された。
七代藩主忠マスは三度に渡り若年寄を勤め、その功により城主格となる。
忠マスは幕末の動乱期にあたり佐幕の立場を取り続けたが、近隣諸藩が
官軍側につくと次第に立場が苦しくなり、慶応3年(1867年)6月に致仕して
忠経に家督を譲った。
最後の藩主となる忠経は佐幕を転換して新政府軍に恭順した。明治3年
(1870年)には敦賀藩の名を改めて正式に鞠山藩を呼称したが、同年9月
には小浜藩と合併し忠経は小浜藩知事となり、同時に鞠山藩も廃藩置県
を待たずに消滅した。

