ーーゆづが、なりふり構わず突進していた理由が、私には理解できないでいたーー
金メダリストとなった今、遅まきながらその深い意味がやっと理解できたように思う・・
Hanyu rises to Olympic gold
羽生の掴んだ金メダルが、地震に見舞われた故郷、仙台に何をもたらすのかと訊ねられ、
この日本人スケーターは、言葉に詰まった。
難しい質問で、はっきりとしたことは言えないとしながらも、答えてくれた。
以下※~※まで、産経ニュースから引用(記事内容と合致)
※何度も考え込むしぐさを見せた羽生は
“そのことに口を開くのは難しい” と本音をもらした。
そして、言葉を選びつつ、
“金メダルを取れたからといって、復興に直接的な手助けができるわけではない。無力感も
ある。でも、一生懸命にやって僕は金メダリストになった。できることがあるとすれば、ここか
らがスタートになる”※
多分そうなのだろうーー結果を見れば、非常に困難な過程を経て成し得た彼の偉業は、
日本人初の男子シングル金メダリストとなったことであり、しかも若干19歳ーーその若さで
ありながら、自叙伝まで出版しているーーー。
彼はショートで、100点を超えた史上初のスケーターになった。が、しかし、フリーの演技
では、格別な印象すら残せなかった。
冒頭の4回転で転倒、3フリップで再び転倒。3アクセル+2アクセルのシークエンスでも
ぐらついた。トータル 280.09 は、ショートで2位に着けていた世界チャンピオン、
パトリック・チャン にとって、射程圏内のはずだった。
が・・・彼もまた同じように、ヘタな滑りを披露してしまうーー最終的に銀メダルとなり、
カナダ人スケーターに延々と続く 『呪い』 --オリンピックで男子は、金メダルを決して
獲れないーーを断ち切ることができなかった。
ーー過去のカナダ人スケーター達が獲得したのは、銀5個、銅4個。
“考えるとホントに可笑しな話なんだけど、我々カナダ人スケーターは、オリンピックという
大会においてのみ、絶対金メダルを獲れないっていう呪われたレッテルを貼られている。”
チャンは言う。
“僕達は、カート・ブラウニングや、エルヴィス・ストイコ、ブライアン・オーサー、そして
トーラー・クランストンを、いつも忘れない。彼らは、歴史を作った偉人だ。
僕も言う事は同じーー彼らが、フィギュアスケートというスポーツに、革命を起こした功労者
であるという事実だけは、誰にも変えられない、ってね!”
羽生とチャンだけでなくーーどうひいき目に見てもーー最終グループに残った殆ど全ての
選手達が、演技に苦しんていた。
(むむむ・・・もしかして、エフゲニー・プルシェンコも、棄権などしなくても良かったんでは・・・!?
互角に戦えたかも・・・)
最終滑走だったアメリカのジェイソン・ブラウンにとっても、銅を狙える、またとないチャンス
だったのに、彼も皆と同様もれなくよろめき、転倒していた・・・
中略
2011年、羽生が16歳の時だった。
仙台を、街全体を揺るがす、壊滅的な地震が襲ったのはーーー
その瞬間、リンクに居た彼は、スケート靴を履いたまま外へと逃れた・・その後の4日間、
避難所生活を余儀なくされるーー
地震と津波で壊滅状態の故郷ーーリンクも別の場所を探さなければならなかった。
最終的にカナダのトロントに移り、現在のコーチである、オーサーの元に落ち着いた。
オーサーは言う。
“二人で、使命を全うする事に焦点を合わせた。一昨年のグランプリファイナルの時も、我々は
ここ(ソチ)に居て、海岸を散歩しながらーーこの時、ちょうどお互いを理解し始めていた頃
だったーー話題が、来るソチ・オリンピックのことに及ぶと、彼が言った。”
“僕は、オリンピックで優勝したいーーそして次のオリンピックも・・・!!”
私は即座に
“ワオ!それは素晴らしい!それなら、すぐ取り掛かろうよ!”
彼が経験したあらゆる困難や忍耐を思えば、彼のこの決意は驚嘆に値する!
“どう説明すればいいんだろう・・?震災後は生活することで精いっぱい。スケートができなくて、
やめようと思っていた。”
そんな中、2006年、トリノの金メダリストである荒川静香が、資金の供給を申し出てくれた
という。同じように、仙台市から、宮城県から、そして国からも資金の提供があった。
ーーそしてもちろん、その他多くの人々からも・・・!!
“あまりにも多くの方々が、自分をサポートしてくれたーーその事にとても感謝している。
感謝しなければと思う。オリンピックチャンピオンとなったけれど、ひとりでここまで来れた
わけではなく、ここに居られるのは、世界中の支えてくれた人達のおかげ。
優勝したことで、支えてくれた人達に恩返しができたんじゃないかと思う。”


