シベールの日曜日
Cybele ou les Dimanches de Ville d'Avray
監督 セルジュ・ブールギニョン
音楽 モーリス・ジャール
キャスト ハーディー・クリューガー
パトリシア・ゴッジ
製作国 フランス
言語 フランス語
製作 1962年
1962年度アカデミー外国語映画賞
1962年度ヴェネツィア国際映画祭特別表彰
あらすじ
元空軍のパイロットで、第一次インドシナ戦争での戦傷による記憶喪失が原因で無為な毎日を送っているピエールは、ある日ひとりの少女に出会う。父親に捨てられ、天涯孤独の身となったその少女はフランソワーズと名乗った。お互いに深い孤独を抱えるピエールとフランソワーズは日曜日ごとにビル・ダヴレイを訪れ、疑似的な親子とも恋人同士とも言える関係で触れ合う。しかし、幸福な週末は長くは続かなかった。クリスマスの日に、ピエールはフランソワーズの望みを叶えようとするが……。
この映画を初めて見た時は、映画の主人公であるフランソワーズ(=シベール)とほぼ同い年だった(12,3歳)
映画館ではなく、テレビ放映されたものだったが、モノクロの映像美や、モーリス・ジャールの音楽の素晴らしさもさることながら、何といっても、シベールを演じたパトリシア・ゴッジに魅せられたーー。
数十年を経て、ありがたいことにYouTubeにアップされているものを観る機会に恵まれた。
ーー少し前、NHKBSで放映されたが見損ない、悔しい思いをしたものだーー
パトリシア演じる主人公は、両親に棄てられる薄幸な少女という設定だが、求められる演技は、子役に演じさせるには苛酷と言わざるを得ないものだ。
シベールは、外見は少女でも、内面は、ピエールという大人の男性を愛する成熟した女性。
かといって、少女らしい無邪気さや、子どもらしい愛らしさを消すようなことになれば、グロテスクな存在になるだけだ。
パトリシアの演技は、観客の五感に、これは演技だと訴えかけながらも、いや、ちょっとまて、実は演技の範疇を超えた 本気 が見え隠れしてはいないか・・?みたいな錯覚を起こさせる。
観客は、次々に不幸が訪れる彼女の大きな瞳を見つめながら、いつの間にか魔法にかかったように、彼女と一緒に哀しみ、ピエールが彼女の幸せのために力を尽くすことを、少女の身になって切望するようになる。
だが二人の運命は、幸せとは無縁の結末へと向かっていくーー
シャルパンティエの鎮魂歌が、残酷な終焉を目撃した総ての観客の慟哭のごとく響きわたるラストは、狭量な心が招く愚行に対する痛烈な告発だった・・
この映画を見て何年か経て大人になった頃、二人の関係が異常に思えた時期があった。
ロリコンと変質者っぽくないかーーなどーー
なので、Youtubeで見始めた時は、不安だった。
ーーとてもがっかりしてしまうのか、それとも、10代の頃の純粋な感動を得られるのか・・
結果は、後者だった--
改めてパトリシアの演技に感銘を受けると共に、それこそ狭量で軽薄な角度から見るのではなく
監督がこの映画を通して伝えたかったメッセージに目を向け、そして耳を傾けるべきだと痛切に感じた・・
※プロフィール画像に使わせてもらっているのは、シベールから3年後、Rapture(かもめの城)に出演する15歳になったパトリシア・ゴッジの横顔です。
Rapture

