ジョージ6世 ~ ウィキペディアより転載(抜粋)
王子時代
アルバート・フレデリック・アーサー・ジョージ・ウィンザー は
1895年12月14日、当時ヨーク公だったジョージ王子(後のジョージ5世)とメアリー妃の次男として生まれる。
兄はエドワード8世。
エドワード8世
ファーストネームであるアルバートは、曾祖父アルバート(ヴィクトリア女王の夫)に因んだものだった。家族からは“バーティー”の愛称で呼ばれていた。
幼少期のアルバートは言葉が遅く、6歳から7歳頃まできちんとした会話ができなかったという。また、生来左利きであったことから、5歳の誕生日を期に父から「いつも人から言われたことをすぐに実行できるよう努めるがいい。早く始めれば、その方がお前にとっても楽だろうから」と伝えられ、これ以降利き腕を右手に矯正するよう指導されることとなった。食事の際は、左手に長いひもを結び付けられ、左手を使った場合には父から乱暴に引っ張られた。字を書く際も、無理矢理右手で書くよう家庭教師達から矯正され、兄エドワードはこれらの厳しい指導に怯える弟の姿を、執拗なまでにからかっていたという。
加えてX脚だったことから、将来高位に就く人間としてこの体形は好ましくないと考えた父の方針により、9歳頃から脚の形を矯正するため、1日に数時間ギプスを着用することも強制された。ギプスを使用する痛みに耐え切れず、泣き叫ぶようなこともしばしばあり、幼いアルバートはこれらの虐待に起因する過度のストレスにより、後に言語障害の専門医から「外見からでも、慢性言語障害の兆候が出ていた」と言われるほど、重度の吃音症に悩まされることとなってしまった。
1923年には、3度の求婚の末にストラスモア伯爵家からエリザベス・バウズ=ライアンを妃に迎え、4月26日にウェストミンスター寺院で結婚式を執り行った。後に、エリザベス王女(現エリザベス女王)とマーガレット王女の2女をもうける。
ジョージ6世(左)との婚姻を間近に控えたエリザベス・バウズ=ライアン
1936年に兄エドワード8世が、アメリカ人で離婚歴があり、さらに当時イギリスと対立を深めていたドイツとの関係が深いと噂されたウォリス・シンプソン夫人と結婚するために同年12月に退位したため、急遽国王として即位しなければならなくなった。
国王時代
1939年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻したことから、2日後の9月3日にフランスと共にドイツに対して宣戦布告し第二次世界大戦が始まると、1940年9月のドイツ空軍機によるロンドン空襲で命を落としかけるも、「国民が皆危険に晒されているのに、その君主である自分達が逃げ出す訳にはいかない」として、側近の進言を押し退けてロンドンから疎開せず、イギリス国民の先頭に立ってドイツ空軍による空襲に耐えた。
王と王妃は「必要とあれば最後まで戦う」とまで宣言し、内外でドイツ軍によるイギリス本土への侵攻が懸念されているにも関わらず、拳銃を手にバッキンガム宮殿に留まり続けた。
ジョージ6世は生来左足が不自由で体も病弱だったが、生真面目で誠実な性格であったとされ、奔放な兄とは正反対であった。その性格が、王妃と共に第二次世界大戦中のイギリス国民を大いに勇気づけ、国民からは「善良王」とまで呼ばれるようになった。
国王の死
1952年1月31日に長女のエリザベス王女と、夫であるエディンバラ公フィリップがオーストラリア、ニュージーランド、イギリス領東アフリカへ訪問するのをヒースロー空港へ見送りに出かけた後、療養を兼ねて狩猟やスポーツを楽しむ為に訪れていたノーフォークのサンドリンガム御用邸で、2月6日未明の就寝中に冠状動脈血栓症により死去した。56歳没。
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ジョージ6世の生涯で、幼少時代が殊に不遇と感じた。ーー国王になってからも第二次世界大戦勃発という不運に遭遇してはいるが、妻のエリザベスに支えられ乗り切っている。
前世に関わりのあるものは何なのかーーそれともそんなものは何もないのかーー
気になったのは、その幼少時代だった・・・

