結論から先に述べると、今日で言うところの宗教は、いずれ無くなるだろう。
今後、伝統・新興を問わずありとあらゆる宗教は、衰退していくことはあっても発展していくことはないと確信した。
尤も、私が生きている間に無くなるということは考えにくいが、その兆しは幾度となく実感することになると思う。
神社・仏閣そのどちらもが、多くが手入れもされず廃屋と化し、一部の国宝級のみが宗教施設ではなく有形文化遺産として残る未来が見えた。
「見えた」というのは、透視や霊視といった感覚的なものではなくて、現実的なあらゆる角度から予測して結論が出たという意味だ。
宗教に所属する人にとっては受け止めがたい話だと思うし、私も宗教には一部肯定的な立場であるが故に悲しくもある。
しかし裏付けとなるいくつもの事実を知り、現実を突き付けられて、何世紀先になるかはわからないが、宗教がいずれ無くなることは認めざるを得なくなった。
そんなことはないと反論する人もいるだろうが、反論したところで各宗教の人口減少と衰退と形骸化は止まらない。これは現在進行形の事実の一つだ。
だが希望はある。
むしろ私の考えでは、現時点ではなく将来的な宗教の消滅はある意味で人類の好機となるかもしれない。
というのも、宗教は無くなっても信仰は存続するからだ。
これまで信仰は宗教の専売特許のようなものだったが、ゆっくりと時間をかけて宗教を介さずに人々が信仰する時代が訪れるだろう。
教義や戒律に縛られずに人々が自由に神に祈る世界の実現は、ユートピア的思想である。
ではなぜこれまで人間は神を信仰するため宗教に所属し、戒律や教義あるいは教祖が必要だったのか。
理由は単純で、第四期と呼ばれる現文明は、人間が進化の過程で最も天から遠のいた物質的地上世界に墜ちた期間だった、そして今もそうだからだ。
人は神や人間存在の本質を知覚・認識できなくなり、賢者が足掛かりとして宗教を作った。
そして宗教をうまく機能させるために教義や戒律が生まれていったというのが、これまで学んできて出た結論だ。
現生人類は、宗教なしには正しく信仰できなかった。
したがって、人間が宗教を介さず正しく信仰するためには、物質的・肉体的な引力に逆らう形で霊的に進化しなければ成立しない。
少し踏み込んで言及するならば、アーリマン存在からの影響を克服し、反動としてのルシファー存在の影響にも打ち克ち、キリスト存在によって貫かれなければならない。
私達は今アーリマン的時代に生きていて、その影響下では、全ては物質であると思い込まされて生活している。
アーリマンの力は今後ますます強大になるが、やがて文明の崩壊と同時にアーリマンの時代も終わることになる。
アーリマン的時代と宗教は拮抗する。宗教が衰退する背景には、アーリマン的作用が増大し、世の中は全て物質だと思い込む人間が増えているという事実がある。このままいけば彼らはいずれ人口知能AIを神として崇めはじめるだろう。
だが先にも述べたように、アーリマンによる地上支配はいつまでも続かない
イエスとキリストという存在は、これまで長い間キリスト教が独占してきた。
しかしキリスト教の衰退と同時にイエス・キリストが独占から開放される時、私たちは宗教や民族の垣根を超えてイエスを学び、キリストを意識することになるだろう。
もちろん既存の宗教の神々を崇敬しながら、共存する形でだ。
日本やインドでは違う名前で呼ばれていた神も、実はキリスト神と同一神だったということも判明してくるかもしれない。
いずれにしても今はまだその時では無い。
アーリマン的時代に生きる我々が宗教の存続以上にすべきことは、思いやりを持って人に温かく接すること。そしてテクノロジーを忌避するのではなく上手く付き合うこと。
神仏の御恵に触れることができたならよく感謝を祈ることだ。
宗教は人類にとって非常に重要な無形の信仰装置だが、いずれそれも過去形になることを知り、宗教を通して人は何を大切にしてきたのかをよく考えてみることが必要だと思う。