先月の仕事は忙しく、大変だった。その大変な時期に一人の若い女性職員が感染症を患い、約10日間の欠勤となった。

 免疫が低下するほどに、相当疲れていたのだろうと察し、復帰しても元気が無い状態が続くか、最悪はこの過酷な職場を辞めてしまうのではないかと私は心配した。

 ところが、いざその女性職員が復帰すると、予想とは裏腹に、その姿と纏う雰囲気は、見違えるほどに明るく清々しいものとなっていた。私の心配は杞憂に終わり、その女性には、「体が治ったなら何よりですよ」と伝えていつもの職場に戻った。

 

 宗教や信仰と関わりを持つ人は、必ずと言っていいほど人はなぜ病にかかるのか、その答えを教祖の教えや、神霊の存在に求める。もちろん私も例外ではない。

 そして言い回しや表現は違えど、大体は同じような答えが返ってくる。それは、因果であったり、霊的な障りであったり、知性ではなく魂の次元で気付くための修行であったりする。そしてその根底にあるもの、病気をする全ての理由には通底するものがあるのだが、それは浄化作用である。

 人は病を患うと肉体は醜く衰弱していく。しかしその苦しみの中で日常では気付き得ない尊いものに気付き、一瞬だけ人生が何たるか、人とは、命とは、神とは何たるかを悟り、その有り難さに感動し自ら反省をする。一瞬だけではあるが、その一瞬の気付きの中から、世間に揉まれ続け穢れが染み込んでいたはずの自己の内奥に隠れていた清い心が顔を出す。それはまるで、穢れを知らないまっさらな魂そのもので、例えるならこの世に生を授かったばかりの赤子に似ている。

 そして全員とは言わないが、大体の人はまっさらな状態で生まれ、最期は病気がもたらす強制的な浄化作用によってまっさらに近い状態で死んでいく。まるであの世へ移行する際に、心や魂に余計な荷物が付随して邪魔にならないように、意思とは関係なしに余計なものが切り離されていく。

 

 それでは、なぜ人は病を患い、苦痛の中で浄化されるプロセスが必要なのかを、もっと深く掘り下げてみよう。

 私は最近、ルドルフ・シュタイナーの著書、主に講演内容が中心の書籍を読んで学んでいる。蛇足ではあるが、私の元々の思想基盤は古神道ベースの霊学と初期の心霊科学である。

 そのシュタイナーの思想には、全人類に影響を及ぼしている二つの巨悪の存在について説かれている。アーリマン存在とルシファー存在(アフリマン、ルキフェルとも言う)だ。

 シュタイナーはこう説明する。太古の昔、ある時期にルシファー存在が全ての人間のアストラル体に潜り込み、人間の進化を妨害するために、これまで人間が持ち得なかったものを与えた。それは感覚的な情熱、衝動、そして欲望。人間はそれによって人間を進化させようとする存在(形態の霊たち)から自立し、自由を得たが、低級な欲望に従って地上に縛り付けられるようになった。

 そこで人間を進化させようとする存在は、ルシファーがもたらした影響に対抗する形で、人間に病気、悩み、苦痛を与えた。

 よって人間は欲望の数だけ悩み、苦しみ、病気をするようになったのだと言う。

 これを親しみやすい善悪二元論に基づいて、もっとかみ砕いて説明するならば、悪魔が人間を地上に堕とすために欲望を与えたが、神は地上に堕ちた人間が天からの使命を忘れないようにするために苦痛や病気を与えて欲望の効果を打ち消した、といったところか。

 

 すでに人智学を習得している人の前では釈迦に説法するようで恐縮だが、このシュタイナーの説く悪の作用と病気の原因は、彼の思想に触れたことのない人にとっては、有益なヒントになるのではないかと思う。

 そしてこの説を推す私も、やはり自身のある体験から思うところがあるからこそ、シュタイナーの思想には説得力を感じている。

 その体験とは、約6年前に病で死にかけたというものだった。

 当時はまだ二十代半ばで、様々な重い苦悩に悩まされながらも、人力であらゆる災難を振り払おうと、必死に努力してあがき続けていた。しかし、あと少しで人生を立て直せるんじゃないかというところで、成すすべもない力の作用によって病にかかり、神経系統を損傷し、一時は死に近づいた。

 これをただ単純に「病気をした」と表現しないのは、目に見えぬ力の作用を行使した存在をはっきりと見たからだ。40°以上の高熱の中、気を失う状態に近いかたちで意識が落ちる瞬間、そのおぞましい存在の姿をはっきりと見た。

 私は霊感も透視能力も無く、幽霊一匹すら見たこともないが、その時だけは見えた。生まれて初めて高次の邪悪な存在を見た。

その存在とは、人霊でも動物霊でもなく、その土地に何百年も昔から居続ける強力な霊力を持つ存在で、その土地に住む人間を無差別に呪っていた。日本の伝統的な言葉で表現するならば"祟り神"だ。霊能者いわく女神(めのかみ)らしい。

 どうりで霊感ある者が訪れると、この土地は恐ろしい何かがいると誰もが口を揃えて言っていたわけだ。

 そして私は、なぜこれまで散々苦しめさせられ命まで狙われたのかわからないまま、人力では到底敵わないことを悟り、これまでの自分の血の滲むような努力と忍耐は何だったんだと人間の無力さと人生の不条理に絶望しながらも、唯一希望の残されたことをした。それは、神にひたすら祈ることだった。まことの正しい高級神霊に。

 幸い、私にはご縁のある神社があり、その神社の神様に、当時は今ほどではないにせよ、小さな小さな信仰心があった。それに希望を託し、一心に祈った。

 結果、病は完全ではないものの治癒し、命を救われた。正神の御力は、邪悪な存在のそれとは比べ物にならないほどに強かった。そしてその高級神霊が祀られるご縁ある神社に近い土地へと導かれ、そこへ移住した。その神社とは、これまでブログで綴ってきた、私がお世話になっている例の神社のことだ。

 その神社の神様のもとで、今は心ある人たちと共に、御奉仕までさせていただいている。

 かつて神に呪われ殺されかけた私が、今度は正しい神様からかたじけなくも御守護を頂き、こうして人生を歩ませていただいている。

 気付けば、私は神はどのような存在で、人間は地上でどのような使命を持っているのかを日頃考えて行動するようになっていった。その矢先に授かったヒントが、シュタイナーの神秘思想だった。ついでに言えば、本田霊学にも辿り着くことができた。

 

 先に述べた、一心に神に祈るようになる過程で、まだ耐え難い苦痛が続いていた時に書いたメモがある。私が27歳の時に書いたものだ。

 この前、薬箱を開けたところそのメモを奥底に畳まれた状態で発見した。

 それを読み返し、病の原因が神の祟りなのか、はたまたシュタイナーの説く欲望のせいなのかは私にはわからないが、その病が結果的に当時の私を魂の次元で確実に浄化していたことが、そのメモから感じ取れた。

 きっと、あそこで死にかけることで人生の本義や神霊の実在を知ることは、私にとって必要なプロセスだったんだ。おそらく神の思し召しとは、きっとこのことを言うのだろう。

 以下にそのメモの内容を書き写し、現在の自分への戒めとして、最後にそのメモの実際の写真を載せておこう。人は絶えず揺れ動き流動的で、喉元過ぎれば熱さを忘れ、災難から救われた有り難さや、その時の清らかな心さえも忘れてしまうものだから。

 これは、過去の自分からの清き手紙であり、本当の教訓だ。

 

 

「病や災難は神様から賜った御手紙である。これを心して拝読し、自らよく反省すること。そしてそれは神のお力によって必ず治癒することを強く信じ続けること」