2017年7月29日リリース!!
『Latina/内なる印象』ラテン名曲集
ana/records3,000円(税込)
★DSD5.6MHz/1bit
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レコード芸術(2017年9月号)特選盤
●濱田滋郎
若手チェンバリストの大木和音は、これまでのCD録音においても、ラモーやロワイエを手がけて自発性に富む、生き生きと能動的な奏楽を印象づけていた人。その人がここに、たいそう意欲的な新機軸のアルバムを発表した。冒頭のドビュッシー<グラドゥス・アド・パルナッスム博士>を除いて他はすべてスペインの音楽。それも、チェンバロのオリジナル曲(つまりバロック時代の音楽)はD.スカルッティのソナタが1曲とソレルの《ファンダンゴ》のみで、あとはアルベニス、グラナドス、ファリャ、モンポウと、近代民族主義楽派のピアノ曲を、あえて己の楽器の鉢に移し植えて聴かせるのである。
昔からよく言われた言葉に「スペインの作曲家は“ギターの言葉で”考える」というのがある。チェンバロの持つ音の質、とりわけその弾むようなリズムの感触は、少なくともある程度、ギターと似ている。そのへんから、大木和音はこの稀な企画を発想したのだろうか。あるいは単に、かねがねスペイン音楽に惹かれ、そのエッセンスを自分の楽器で表現したいと望んだのだろうか。結果は、非常に高い次元で言えばさらに彫琢の余地を残すとはいえ、まずは存分に興味深い、オリジナリティで魅了できる奏楽を現出している。実は私は当ディスクに解題の任を取っているのだが、そこで最初のドビュッシーの鮮やかさを讃え、その後についても「近代スペインの楽曲に新たな“いのち”を与える画期的な成果」だと記した。これは、身びいきによる言では全くない。
●那須田務
なんとユニークな!スペインやフランス近代音楽をチェンバロで弾いているのだ。チェンバロの発音はギターと同じだから、スペイン近代音楽はなんとなく想像できる。
それはともかく、ドビュッシー<グラドゥス・アド・パルナッスム>から聴いていこう。リオンのクロル(1770年製。1オクターヴ分の足鍵盤付き)の複製の華やかな音が、アルペッジョにゴージャスな華やぎを与える。ここからはスペイン近代。アルベニスの<アストゥーリアス>やグラナドスの<アンダルーサ>はギターを彷彿とさせるが、チェンバロの方がより堅固な構造の上に金属弦なのでずっと迫力がある。<火祭りの踊り>も同様だ。ずしりと手応えのある低音をはじめとして、音域によって音色が違い、とてもカラフル。大木の演奏もリズムに切れがあり、表現もストレートで情熱的で、スケールが大きい。ヨーロッパ的洗練に加えてスペイン音楽独特のイディオムも十分。グラナドスの<オリエンタル>ではまさに東洋的なエキゾティシズムの香りが倍増。ピアノに比べて音楽の線的な構造が一層出るし、ギターよりも情感の色合いが濃厚。これらにスカルラッティの《ソナタ》ニ短調K.213がしっくり溶け込んでいる。モンポウの《内なる印象》もこれまでにない魅力が発揮される。歴史的云々ではなく、チェンバロの新たな可能性を探ろうというわけだ。大木和音は東京藝大及びユトレヒト音楽院で学び、バロックのみならず現代音楽も積極的に手掛けている。
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月刊ぶらあぼ 9月号
チェンバロで、近代スペイン作品を弾く。本場オランダなどで学んだ大木和音の挑戦は、実に興味深い。バロックという時代から切り離すことで、チェンバロに新たな可能性が広がる。スカルラッティにソレールと、バロックの作品も忍ばせる。冒頭には、さりげなくドビュッシー。同じ撥弦楽器のせいか、特にギター音楽的な要素の濃い作品では、違和感がないどころか、よりダイナミック、フレンチの楽器の底鳴りの良さも一役買う。一方で、同じリズムの繰り返しの場面など、ミニマル・ミュージックを聴くような不思議な感覚にも。取り上げた作品自体にも、新たな地平をもたらす。(寺西 肇)
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intoxicate June, 2017
ドビュッシーやアルベニス、モンポウのピアノ音楽をチェンバロで聴けるというだけで大歓迎のアルバムだが(なぜかこの手のCDは本当に少ない)、その魅力はサウンド上の目新しさ、面白さにとどまらない。メインテーマである「ラテン/スペイン」にバロック、国民楽派、近代、あるいはギター、チェンバロ、ピアノ、はたまたドビュッシーというさまざまな要素を重ね合わせたことで、アルバム全体に複雑な味わいが生まれ、聴き手はそれらの意外な共通性に気づく。アルバムの冒頭に置かれスペインとの関わりが深いドビュッシーがギターとチェンバロを比較した言葉を残しているというのもなんとも面白い。(タワーレコード本社 桐島 友)

2015年6月24日リリース! !
『三美神』
~ ラモー/ロワイエ/デュフリ クラヴサン作品集 ~
ana/records ¥3,000 (税込)
★DSD11.2 MH z / 1bit 完全無編集作品!!
■レコード芸術 (2015年8月号) 優秀録音盤&準特選盤
●濱田滋郎
CDタイトルの『三美神』はギリシア神話に登場する美と優雅さの女神たち。デュフリによるこの曲がCDの冒頭に置かれ、最期の14曲目に今いちど弾かれるが、その時は1955年に複製が作られたという往時のアップライト・ピアノ“ピアニーノ”を用いて演奏される。これも趣があり、チェンバロ演奏との比較はなかなか興味深い。ところで申し遅れたが、1から13までが奏でられる使用チェンバロは、オリヴィエ・ファディーニ(パリ)が製作したクリスチャン・クロル(リヨン、1770年)製クラヴサンのレプリカ。たいへん好ましい響きがしている。3人の作曲家中、ラモーは言うまでもなくデュフリも近頃よく作品の録音が行われているが、残る一人の(ジョセフ=ニコラ・)パンクラス・ロワイエ(1705~55)に関しては、魅力的な作曲家にもかかわらず、近来とんと忘れられがちであった。したがって、ここにその作品のいくつかを聴けることは喜ばしい。《優しい感情》《気まぐれ》《敏感》などは一種憑かれたような情念を湛えた楽曲であり、大木和音の弾きぶりもそれにふさわしい。
●那須田務
デュフリの名曲《三美神》を表題作に、ラモー、ロワイエ、デュフリの小品で編まれている。この楽器はちょっと聴いただけでは華やかでいささか平板だが、ある程度再生装置の音量を上げて聴くと、繊細かつカラフルで力強い本来の魅力が出てくるようだ。
アルバム冒頭に置かれた《三美神》は繊細なプレクトラムらしい軽やかなタッチの落ち着いた風情の演奏で、自然な放物線を描く冒頭の旋律が快い。《ラ・ド・ブロンブル》やロワイエの《タンブラン》は若い弾き手らしい生き生きとした感興と力強さがあり、ラモーの《無関心》や《メヌエット》は不均等奏法のイネガリテがほのかな愉悦を醸し出す。《未開人》は表現がうまくまとまっているが、とくに楽曲の性格を強調しない。当時の演奏様式を理解した良識的な解釈に加えて、内面に強いパッションを秘め、ロワイエの《優しい感情》には十分な瞑想的な深みがある。最後のピアニーノによる《三美神》が興味深い。通常のモダンのピアノによる演奏に比べて感傷的に過ぎることがない。
●神崎一雄【録音評】
冒頭から、のびやかで、明朗で、華麗な響きを伴うなど、ひとつのフレンチ系"クラヴサン"の音と響きとを眼前に浮かび上がらせて魅惑的だ。彩り華やかに膨れあがるイメージのクラヴサンの楽器自体の響きや、はじかれた弦の余韻、柔らかな演奏雑音など、フレンチ・クラヴサンの香りを精細にして十全に捉えたチャーミングな録音と言えよう。<90~93>
♪優秀録音 -レコード芸術・8月号 新譜月評-
●神崎一雄
ひと通り試聴した段階で全般的に録音から見たレヴェルは高い、という印象を受けた。復刻CDが1枚もなかったせいか。それとも収録時期がほとんどすべて2013年以降に収録されたものばかりだったせいか。初めの試聴で印象に残ったのは3点。ハーゼルベック/ウィーン・アカデミー管のベートーヴェンの交響曲第1&2番、大木和音の『三美神』、ピアノ・デュオ・タカハシ・レーマンのストラヴィンスキーの《春の祭典》ほか。とくにベスト3を意識したわけではないのだが。
ベートーヴェンか『三美神』か最後は迷った。録音傾向は異なる。温かい響きのなかにあるベートーヴェン、のびやかで華麗な雰囲気と曲とが一体となってのフレンチの香気溢れる『三美神』。持っている魅力はまったく異なる。オリジナル楽器オーケストラによる交響曲は今後に期待し、今回はフレンチ一色に見事に染め上がった『三美神』としよう。
2013年5月15日リリース !!
『ため息の風景 』
~ ジャン=フィリップ・ラモー クラヴサン作品集
¥2,571(税込)
レコード芸術 (2013年6月号) 準特選盤
●皆川達夫
18世紀フランスの作曲家のジャン=フィリップ・ラモー(1683~1764) 作曲のクラヴサン曲選集である。数々の舞曲とともに、<ムーサたちの対話><つむじ風>などの有名曲が選びだされている。解説書によると、『ため息の風景』というCDタイトルは、1724年刊《クラヴサン曲集》中の<ため息 Les soupirs>以上にもっともっとふかい含蓄が籠められているという。
演奏は大木和音さん。東京芸術大学チェンバロ科を卒業され、オランダのユトレヒト音楽院で学ばれた由。繊細で心やさしく、素直で自然な音楽づくりに魅せられる。この作曲家との相性がよいのであろう。妙な自己主張や作為など一切なく、ただただ真直ぐに、あるべきラモーを追求しておられる。
たとえば1728年頃刊《新クラヴサン曲集》から<サラバンド>の、そこはかとない歌いまわしに独特の雰囲気がある。一方、<ガヴォットと6つのドゥーブル>の展開も見事なもの。今後の大成が期待される奏者である。
■Dramatic Latin Baroque!!
(『ため息の風景』リリース記念コンサート 2013年4月11日@白寿ホール / フライヤーより)
●小沼純一
チェンバロはピアノにくらべてニュアンスに乏しい。だからあまりおもしろく感じない。たとえ口にださなくともそんなことを内心おもっている人がいたら、一言憎まれ口をたたかせていただこう。それはあなたの耳がわるいか、聴いている演奏家がよくないか、さもなくばつかわれている楽器がいまひとつか。どれかではないか、と。とはいえ、わたし自身大差ない。多くの場合、ディナーミクの幅が、音色の多彩さの豊かなピアノを愛聴するほうが多いのだから。でも、ごくまれに、そうか、これがチェンバロの、と鼓膜が新鮮にふるえることがある。近年ではそんな演奏にふれたのは大木和音の、である。
1曲1曲のテンポの設定とその ‘ゆれ’。ひとつひとつの指がつぎつぎに音を発しつつ、0コンマいくつで入れ替わってゆく微細な間合い。タッチとストップによる音色の変化。そしてこれらが綜合されて生みだされる優美な音楽のながれ。18世紀、バロック時代だからそう呼ばれなかったろうが、その時代に人びとが心身のなかで演奏者と、そこから生まれてくる音楽と、文字どおり共振した″グルーヴ″が、300年の時空を越えていまに届けられている、とでも言ったらいいか。そうだ、こういうラモーを、ピアノではなく、チェンバロでこそ聴きたかったのだ。
わたしはこのチェンバリストの演奏を、はやく聴きたい。この文章を書きながら気が急いている。いま、期待でいっぱいになっている・・・・・・