発症からALSの確定診断、そして前を向くまで | 置かれた場所で咲くことにした

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ALSのこと、8才5才のこどもたちのこと、車いすでのお出かけなど
ゆる~く、書いたり書かなかったり、、、

このブログには、出来れば明るい話を中心に載せたいと思っているのですが

コメントやメッセージで「発症した頃どうでしたか」という質問があったり

フォローしてくださる方には告知後すぐの方やなかなか診断が出ずに辛い思いをされてる方が多いようなので 、誰かの励みになるならと載せることにしました

 

こういう時期もあったけど、

そして、やっぱりちょっとずつ進行するので

たまに悩むことはありますけど

告知から5年のほとんどは

最近のブログに書いてるような明るい毎日ですおねがい

 

 

発症はおそらく2012年夏ごろからで、確定診断は2013年12月ですので、診断が確定するまで、1年半近くかかったことになります

この時期の中で、特に辛いと思ったのは 、いよいよおかしいと思って病院に行ってから確定診断を受けるまでの8ヶ月でした

 

2012年の8月、普段赤ちゃんと一緒で階段に登る機会がなかったのですが、久しぶりに子供を預けて友達とランチをする特に、階段を登るのがつらいことに気がつきました

でもこの時は、出産での体力低下が原因だと考えていました。

 

しかし、2013年5月、何もないところで転ぶ、長い距離を歩くと足が痛くなり足が上がらなくなる、など症状がどんどん悪化し整形外科を受診しました

 

整形外科ではレントゲンでの異常がみられないので週1回のペースで電気やマッサージなどのリハビリを行っていました。しかし一向に症状は良くならず、それどころかどんどん悪くなります。

 

その頃、子供が一歳だったので、ベビーカーを歩行器のように頼りにして歩いていたのですが、それでも転んでしまったり、どう頑張ってもゆっくりしか歩けずおじいちゃんに追い抜かされてしまったり、ベビーカーのトッパーが足のつま先であげられなかったり、 どんどん悪化する症状に不安でいっぱいになりました。

 

悪化していることを整形外科医に伝え、MRIを撮ってもらったが何も見つからず総合病院の紹介状書いてまたのは最初の受診から2ヶ月以上も経っていました

 

紹介状書いてもらったその足で総合病院に行くと、「こんなに脚が痩せてるのに何もないわけがない」と言われ、ハッとしました。衝撃的な言葉ではあったけど、今まで何も異常がないと言われているのにどんどんどんどん状況が悪化する得体の知れない不安の中にいたので、この先生ならきっと治してくれると心強く思いました。

 

その先生からは、「紹介状に添付されたMRIに画像から腰の神経が通っている部分に良性腫瘍がある。手術をして摘出すれば治ると考えられるが、初見と合わない症状も出ているのでさらに詳しい検査をしたい。この病院ではできない検査だが、自分は大学病院でもているので診察しているのでそこで検査をしたい」と言われました。

 

手術、腫瘍、所見にあわない症状、という不安要素のあるワードは、このとき全然気になりませんでした。

むしろこの2ヶ月、原因がわからずにどんどんどんどん体の調子がおかしくなるという不安から解放され、腫瘍も良性だし手術すれば前みたいに普通に歩いたり走ったりできるようになるんだ、と希望の光が見つかったような気持ちになりました

 

しかしその希望はすぐに打ち砕かれました

 

その後、大学病院て行った針筋電図や別部位のMRIなどの結果から整形外科の領域では症状の説明がつかない。大学病院の神経内科あてに紹介状か書くのでそちらで診察してもらったほうがいいと言われました。

 

今から思うと、総合病院の整形外科の先生に出会うことができたのは幸運でした。

たった2週間で、神経内科の領域に適切につなげてくれました

 

神経内科を勧められた時、手術で治るわけじゃないと少しがっかりしたのと、神経内科と言う領域に少し不安を感じましたが、それでも神経内科に行けば原因がわかる、治してもらえると思い、その翌日に神経内科を受診しました。

 

診察ではそれまでの経緯を丁寧に聞いてくれ、ベテランの針筋電図技師に検査してもらえるようにしてくれたが、その検査ば1ヶ月後しか予約が取れませんでした

 

原因がわからないまま、検査日だけを待つ一か月

考えても仕方がないから普段の生活を楽しもうと考えたが、不安が募る一か月でした

その間もどんどん症状は悪くなり、 とうとう 足の力で階段が登れないようになってしまいました

また、この頃から体の筋肉がピクピクするようになりました

 

1ヶ月後の、ベテラン検査技師の針筋電図の検査日には一時間半かけて丁寧に検査してもらった。右手の力比べで負けてしまい、「右利きですよね?」と2度確認されました。今まで手の症状を認識していなかったが、右利きである自分が、うまく右手に力が入らずすごくショックでした

 

検査後に「今回はポイントとなる部分の検査しかできなかったので、また再度予約を取って別の部位の検査します」と言われて、また、先が見えない、症状だけが悪化する日々を過ごすのかと思うとぞっとしました

 

 このペースでの検査を続けていたら自分の体が恐ろしいことになってしまいそうで、翌日担当医師に電話して 、検査入院の希望を伝えました

すぐに対応してくれて、初めての検査入院することになりました

 

入院中は本当に痛い検査ばっかりで、毎日痛み止め飲むぐらい 痛い思いをしました

でもこの検査で、きっと原因がわかるんだ、原因がわかったら治療ができるんだと思っていたのでそれを心の拠り所に頑張りました。

 

入院から9日目、可能性のある病名の説明を受けました


 

可能性があるのは

○筋委縮性側学硬化症(ALS の正式名称)

 ○ガングリオンド抗体関連

 ○悪性腫瘍に伴う運動神経の異常

まず、悪性腫瘍の検査をしてそれがあったら、手術なりで悪性腫瘍の治療をする、

陰性だったら一旦退院して、1か月後に結果がでる近畿大に送った検体の結果をまつ

結果が陽性ならば、ガングリオンド抗体関連であるので、2週間ほど入院して点滴での治療を行う。

そうでなかった場合、筋委縮性側索硬化症を疑うことになる

その場合は、症状の進行を抑える薬しかない

 

という内容でした

 

説明を聞いている間、聞いたこともない病名に今まで感じたことのないような緊迫した気持ちを感じました

 

病室に戻り、スマホで筋委縮性側索硬化症を検索するとWikipedia で「発症から3~5年で呼吸筋麻痺により亡くなる」と書かれていて、目の前が真っ暗になりました

その日は眠れず、夜中に声をあげて泣いてしまいました

 

ちなみに 、今はどなたかが Wikipedia を更新してくださったので、 呼吸器装着やコミュニケーション機器、治療法の研究など希望的な記述がされています

 

翌朝、デイルームで同室の人とおしゃべりをして

お互いの話をして

「大変だけどいいといいこともたくさんある」

と言ってくれました

その人と話して元気が出て

今でも、落ち込みそうになるといいこと探しをするようにしています

 

「大切な家族がいる」「まだ手が動く」

できなくなったことよりも、まだできることを

襲ってきた不幸よりも、身近な幸せを

そういう風に思えるようになったのは

この時の出会いのおかげです

 

入院中のがんに関する検査は全て陰性で、一旦退院し、1ヶ月後の検査結果を待つことになりました

 

この一か月がまた辛かった

なるべく病気のことを考えないように、子供や友達や家族と過ごす時間をとったのですが、症状は悪化の一途をたどり、徒歩7分の最寄り駅がはるか遠くに思え、よく動く娘が道路に飛び出しても追いかけきれなくて、近くの公園に連れてくこともしてあげられなくて、落ち込むこともたくさんありました

 

また確定診断が出ていないこの時期に、

京都まで病気と縁が切れるようにお参りに行きました

それだけ、治療法のない病気だと確定することが怖かったんです

 

運命が決まると思っていた10月23日

結果は、ガングリオシド抗体関連が一部陽性。一部って何って感じでした

 

病名が決定して治療できるわけではない

ALSを否定する根拠にはならない

また新しい検査をする必要がある

という説明を受け、目の前の色が消えていく不思議な感覚に襲われました。

 

ただの腰痛でないとわかってから3ヶ月「次の診察でどういう病気かわかる」という期待をして、それが先延ばしにされるのがずっと繰り返されてきた。

そして、可能性のある病名や治療法は回を重ねるごとに深刻なものになっていっていました

 

それから2週間後、ガングリオシド抗体関連の治療が有効かどうかの検査結果はバツ

 

「ガンマグロブリン大量投与」の治療をするものだと、入院の心づもりをしていたくらいだったので、気持ちがぽっきり折れてしまいました

 

大学病院ではALS以外の選択肢は消えてしまったので、国内で唯一の脳神経・筋疾患専門病院で最初から検査してもらうことを望んで紹介状を書いてもらいました

 

2度目の検査入院でも様々な検査をしました

専門病院だけあって、いろんな患者さんがいて、大変なのは私だけじゃないんだなと思いました

 

 

そして、12月5日ALS の確定診断を受けました

 

 

この頃には、外では車椅子がなければ移動できないほど、症状が進んでしまっていました

 

退院した翌日、車椅子を借りてディズニーへ

 

 

なんとか頭を整理して前向きに生きようと思おうと努力する中で

 

「働き盛りの夫やまだ小さい娘、高齢の両親に介護の負担はかけられない。呼吸器をつけるのはやめよう。」

と告知後すぐに決意を固めました。

 

その考えが変わったのは、日本ALS協会が発行している「LIVE TODAY FOR TOMORROW ALSの患者さんとご家族のために」という冊子を読んだ後でした。

 

冊子を読んで、自分だけではなく色々な人が同じ病気と共に生きていることを身近に感じました。

 

「ALSが難病でなくなる日がくるまで、“明日を信じて”家族と力を合わせ、病気と闘っていきたい」という言葉にはっとしました。

 

そして、私と同じ2歳になる娘がいてALSを告知された男性のコラムを読みました。

その男性も当初は人工呼吸器による延命をしないという方針を夫婦で決めていました

しかし、病状が進行し、家族の献身的な介護を受けているうちに気持ちが変化して、娘が自分のPC入力方法を真似して「○○ちゃんもお仕事するの」と言った時に、こんな自分を父親として認め必要としていることに気づき「家族のために生きよう」呼吸器をつけて体が動かなくてしゃべれないことがどんなに辛いことでも、家族がいる以上1日でも長生きするのが家族への恩返しだ。と思ったそうです。

 

コラムを読んで、

「今は、まだ呼吸器をどうするかは決めなくてもいい。とにかく今の症状とともにどう生きていくかだけをシンプルに考えよう。」

と思い直すことができました。

なんだか、肩の力がふっと抜けて気持ちが楽になりました。

「前向きになろう」と思いすぎて肩ひじをはっていたんだと思います。

 

その後は、

難病申請、障害者手帳の申請、障害年金の申請、電動車いす認定の手続き、電動車いすで2歳の子供を膝に乗せて2人でお出かけ、4月から復職予定の育休中の職場へ病気の説明と育児短時間勤務の申請、日本ALS協会への入会、家事援助の申請、保育園の申請、ファミサポの申請、東北大学の治験の問い合わせ、その時はまだ認可の下りていない治療(エダラボン)を自費診療で受ける、などなど、これからを生きるための準備をどんどんしました

 

手続きは煩雑で時間がかかるものばかりで、用意する書類もたくさんあって大変だったんですけど、逆に何かやることがあるというのは、余計なことを考えずに前に進むには良かったかもしれません

 

それから、たくさんの人の優しい気持ちに触れることも 、私の気持ちを前に向かせてくれました

家族、友人、病院の先生やスタッフ、障害福祉課や保健所、障害福祉の相談員さん、職場、近所の人、駅員さん、通りすがりの人、様々な人が本当に親切に親身になってくれて温かい気持ちになりました。

 

生活が安定すること、それからちょっと先が見通せること

これが安定した気持ちで生活することができる 要因かなと思っています

 

ところで、医療者によって

「沢山の ALS 患者さんがブログとかやってるから、読んででこれから先のことを考えた方がいい」

という人と

「人によって、進行の仕方症状の出方は全然違うから、不安になるから見なくていい」

という人がいます

 

私はたくさんの情報の波に飲み込まれるのが怖くて

その時期はブログをやっていません

ALS 患者とのコミュニケーションや情報収集も

ALS 協会などの交流会や会報誌など

オフィシャルもなものだけにしていました

 

私はそんなに強くないので

これ以上不安にさらされないように

自分を守りながら、

たくさんの人に頼って

とにかく生活を整えていく

それが私の病気との向き合い方でした

 

だから発症してすぐにブログ始めた方は、

すごいなぁ、つよいなぁ

と思います

 

今更ですが、やってみると、

やっぱり、同じ病気の仲間や病気は違っていても闘病、看病している方との交流は励みになりますね

 

私は、近い将来必ず治療法が確立して治ると信じているし

また前のように歩いたり走ったりできると本気で思っています

 

それって病気受容できてないってことなのかな

と思ったりすることもあります

 

でも

「人が想像できることは必ず人が実現できる」

という素敵な言葉があるので

きっとその日が来ると強く信じることにしています

 

医療の進歩とともに

ALS やその他のたくさんの病気の治療法が

少しでも早く実現しますように