鄭州市の二里岡文化(紀元前1600年頃 - 紀元前1400年頃)は、大規模な都城が発掘され、初期の商(殷)王朝(鄭州商城、建国者天乙の亳と推定)と同定するのが通説である。
✴︎偃師商城
偃師の尸郷溝で、商(殷)王朝初期(鄭州商城と同時期)の大規模な都城が見つかっている。これは二里頭遺跡から約6km東にある。
✴︎洹北商城
殷墟のすぐ北東(洹水北岸)に、殷中期の都城の遺跡が発見されている(花園荘村)。
文字を刻まず占卜した獣骨が出土している。
殷中期に至っても文字資料はほとんど全く出土していない。
✴︎殷墟
現安陽市の殷墟(大邑商)は紀元前1300年頃から殷滅亡までの後期の首都。
甲骨文が小屯村で出土することが契機で発掘が始められ、その地区が宮殿および工房と考えられ、首都の存在が推定された。
都城の遺跡は見つかっていない。
洹水を挟んだ北側では22代王の武丁以降の王墓が発掘されている。
甲骨文からもここに都を置いたのは武丁の代からと考えられるが、竹書紀年では19代王の盤庚によるとある。
✴︎甲骨文字
殷の考古学的研究は殷墟から出土する甲骨文字(亀甲獣骨文字)の発見により本格的に始まった。
これにより、『史記』にいうところの殷の実在性が疑いのないものとなった。
甲骨占卜では上甲が始祖として扱われ、天乙(名は唐)が建国者として極めて重要に祀られている。
遺跡のうち、住居跡・墳墓・貝塚・城跡など、土地と一体化されていて動かす(移動させる)ことができない物を遺構(いこう)と呼び、石器・土器・装飾品・獣骨・人骨など、動かす(移動させる)事のできる物を遺物(いぶつ)と呼ぶ。
つまり、遺跡のうちの不動産的要素が遺構、動産的要素が遺物である。
日本考古学が遺跡と遺構を呼び分けはじめたのは30数年前以来である。
日本において考古遺跡は、文化財保護法の規定にしたがい、面的にとらえて「埋蔵文化財包蔵地」と称されることがある。
遺跡は、石器や土器のような遺物が散布している場合に考古遺跡(「埋蔵文化財包蔵地」)の存在を推測する材料にはなるが、遺物単体が出土しただけでは、通常、考古学的にみて有意な遺跡にはなりえない。
そのため、遺跡の本体を構成する要素は遺構であり、遺構および遺構のあつまりを称して遺跡と呼ぶ場合も多い。
地表面から遺物の散布がみられるものの、その性格が未だ明確でない遺跡を遺物散布地と呼ぶ場合がある。
遺構がともなわない場合、実際には遺跡を構成する重要な意味を持つ場所かもしれないが、その反面、土が移動され客土にともなって遺物が散布している場合もあるので注意を要する。
この場合、出土状況や土層観察によって、堆積土か、それとも客土であるかをみきわめる必要がある。
過去の人びとの活動の場が遺跡であり、したがって遺跡は、それがどのような活動であったかにより分けられる。
人が住んでいたところ(集落遺跡、都市遺跡、貝塚)
祈り祭ったところ(祭祀遺跡、配石遺跡)
寺や神社、神殿のあと(宗教遺跡)
ものをつくったところ<生産遺跡>(製塩遺跡、製鉄遺跡、水田遺跡、窯跡)
道や港のあと(交通遺跡)
死者を葬ったあと(墓地遺跡・古墳)
墓以外で意図的に何かを埋めた遺跡(経塚、銅鐸埋納遺跡など)
軍事的な施設のあと(とりで跡、城跡))
洪水対策の土手(土塁・盛土)や排水路(堀)のあと(治水遺跡)
きわだった遺構の検出がみられなくても、岩陰遺跡、洞穴などのように堆積層によって過去の人類の生活の痕跡がみとめられる空間やキルサイトと呼ばれる動物の狩猟および解体場も、過去の人類の生活の痕跡がみとめられる。
前者の場合、建築物をつくらなかったものの岩陰や洞穴を住居としたことが明らかだからである。
キルサイトの場合は、動物の化石や狩猟に使用した石器などが出土する。
出土した化石や遺物が現地性堆積物で、化石に解体痕がある、石器に使用痕があるなどの理由によってキルサイトと認められた場合には遺跡と呼ばれる。
岩陰遺跡では、しばしば壁画をともなうことがあり、先史時代の人びとの生活のようすや価値観を伺い知ることができる。
政府の相次ぐ不祥事を指摘したうえで、内閣不信任案などの扱いについて、「最も効果的な時期を選んで使う」と述べた。
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