私が一般常識におさまらない領域について練習したり考えたり書いたりするとき、よく思い出して自戒する言葉をメモしておきます。
霊能力のたぐいは、幸か不幸か今のところ(たぶん)ほとんどないものの、「気」を扱っているといろいろ気をつけねばならないこともあります。
遠藤喨及『「気と経絡」癒しの指圧法』(講談社+α新書)より2か所引用。
「…ふだんの生活でも「なんとなく」誰かに会うような気がしていたら、偶然、知り合いに会うなんていうことがある。
この「なんとなく」というのは、人が誰しも持っている原始感覚によって生じるもので、第六感などと呼ばれることもある。
(中略)
現代人は、こうした能力がめっきり弱くなってしまった。だから、こういった古代的な能力に目覚めると、自分が悟りを開いたなどと、えらくカン違いする場合がある。ところが、こんなものは(といってはナンだが)仏教的な意味での悟りではまったくない。原始感覚の覚醒は、その人の霊性の高さや悟りとは、まったく関係がないから。
気の研究をする人の中にも、原始感覚の覚醒と悟りを取り違えて傲慢になってしまう人がいる。しかし、それは誤解。お互いに気をつけよう。」(140~141ページ)
「…原始感覚が覚醒すると、気が見えたり、過去世が見えたり、はたまたオーラだの霊だのが見えたりなど、いろいろとある。しかし、いずれも仏教では天上界の境地であって、悟りではなく迷いの境地なのである。
それでも、そうしたことは仏教でも神通力(六神通といって、過去世が見えたり、他人の心がわかったりなど、いろいろある)と言っているではないか、と反論される方もいらっしゃるだろう。
だけど経典には、「魔に取り憑かれることによって、五つまでは仏とまったく同じ神通力がつくことがある。そのようなグルは、あなたの過去世を言いあて、探しものを見つけ、空中から物品を出すなど不思議な現象など奇跡を見せて、巧みに信者にするが、気をつけるように」と説いてある。
魔であっても、五つ目までは、仏と同じ神通力を持っているから、過去世も当てるし、人の心も読めるのである。ところが、六つ目の神通力だけは、仏は持っているが魔にはない。それは、漏尽通といって、煩悩を漏らし尽くした、あらゆる執着から解放された精神のことである…」(178~179ページ)
この遠藤先生の本、読むたびに新鮮で目からウロコです。
もう一つ。
シュタイナーの「能力の開発で一歩進むなら、同時に人格の向上で二歩進まねばならない」という意味の言葉。
(のっていた本が見つけられないため、正確な引用ではありません)
ひとまずこんなところかな。