里見岸雄(1897-1974)の国体論は重箱三段重ねの国体論である。
一番上に国家がある。
その下に市民社会がある。
日本の場合は、国家の基底部をなす市民社会のさらに基底に、天皇を主宰神とする血の共同体としての国体がある。
これがヨーロッパとは異なる日本の特質である。
国体は、市民社会、そして国家に対して指導原理・批判原理として作用する。
里見岸雄は大要このように論じている(『国体学入門』、『八紘一宇』など)。
しかし、国体は生のままに顕現することはないのだと、里見はいう。
里見によると、国体は市民社会の被膜を被った形で現れる。
市民社会では経済的強者が支配階級となり、支配階級の利益に沿った形で運営される。そして市民社会の上にある国家も、市民社会の影響を受ける。
国体もまた、上のような市民社会によって歪曲された形で現れざるを得ない。
しかし我々はそれを寛容の心をもって容認しなければならないと、里見はいう。
「すべての善悪は歴史的な経過として一往容認する丈けの寛容が無ければ小児病的理想主義になってしまう。いかなる者でも各々立場立場があるのだから、その立場を極端に無視してしまうというやり方は天皇の御精神ではない。現実に歴史的必然を有してをる一切のものを一応容認する、それだからといって永遠に之を固定するのではなく、一つの経過的なものとして、一歩高い理想に持って行く為に一応是認する。」(『国体学入門』錦正社 1942年)
これは国家と市民社会の指導原理・批判原理などではなく、現状追認の論理である。
里見岸雄はマルクスをはじめ、左翼文献を読み込んでいた学者であり、重箱三段重ね国体論の着想は、プルードンの「二つの社会」あたりから得たのではないかと思う(あくまでも臆説であるが)。
「社会には公認の社会と真実の社会との二つがある。」
「公認の社会はわれわれに見えるとおりの世界であり、(中略)真実の社会とは、生きた社会であり、絶対的で不変の法に従って発展する社会であり、われわれが社会とよんでいるあの束の間の腐敗したかさぶたをその生命によって支えているものなのである。」
(『プルードン・セレクション』河野健二編 平凡社 2009年)
プルードンによれば、「進歩」とは「公認の社会」の表皮(かさぶた)を引き剝がして、その下に在る「真実の社会」を顕現せしめることであり、「進歩」とは即ち「破壊」なのだという。
里見岸雄は上のようなプルードンの議論を換骨奪胎して、「進歩」=「破壊」の論理ならぬ現状追認の論理として国体論を組み立てたのではないか。
しかし「すべての善悪は歴史的な経過として一往容認する丈けの寛容」を持てと説く里見岸雄が、日本国憲法を「歴史的な経過として一往容認する丈けの寛容」を持っていたかといえば否である。
国体論とは、貧困、言論抑圧、対外侵略といった支配階級の利益に沿う現実には無限に寛容だが、一般国民の自由や権利の向上には牙を剥く支配のイデオロギーである。
このような里見岸雄を有難がって持ち回っていた鈴木邦男を、私は全く信用しないのである。
(追記)
作家の松本清張は『北一輝論』の中で、北の文体を評して「張り扇の音がする」と述べたことがあるが、この評言は、何やら調子のよさげな里見の文体にこそ相応しい。