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ラニカイのブログ

★★★ 健康で楽しく暮らすために日々奮闘中! ★★★
 

この時期になると
あちこちから入ってくる

もう40年なんですね

当時
仕事で九ちゃんと一緒になった友人が
とてもショックを受けていました。

相変わらずYouTubeを色々見て行くと







今年亡くなった森永先生が書いた遺言の

1つだそうです。


日航機の事故原因を

ボーイング社に被ってもらって

その見返りに

40日後の『プラザ合意』があると言う。



星東洋経済星 より

当時の日本は活気にあふれていて欧米諸国に対して巨額の貿易黒字を出し、世界経済でほとんどひとり勝ちといっていいような状況だった。しかし、日本から見れば貿易黒字でも、相手から見れば貿易赤字だ。これにアメリカは不満を持ち、対日批判を強めていた。

アメリカは、日本の黒字の原因は、行きすぎた円安だと分析し、それまでの円安を円高に転換しようと考えた。円相場は、85年8月に1ドル=240円前後だった。いま振り返ると、よくそんな円安だったものだと、改めて驚く。

アメリカはこれを問題にし、G5の会議を開いたのである。G5は、それまでの円安を円高に方向転換することを決めた。

日本もそれを受け入れた。

これを、「プラザ合意」と呼ぶ。

活力にあふれた日本経済は、プラザ合意を境に、根底から変わり始めた。プラザ合意で日本は、日本経済を弱くすることを自ら受け入れた。それは、日本にとって事実上の降伏のようなものだった。

しかも、ただの降伏ではない。

合意を受け入れるにしても、円高が行きすぎて日本に悪影響が出た場合はG5を再び招集して、行きすぎた円高を止めるとか、合意の内容を再検討するとか、なんでもいいから、条件を提示しておけば、その後の展開も少しは違ったかもしれない。

しかし、プラザ合意によって長く激しい円高が始まり、日本経済が低迷と停滞に向かうとは、このとき、だれも予想していなかった。そのため、プラザ合意を受け入れるとき、日本は、何の条件もつけなかった。

その結果、プラザ合意は、日本経済の無条件降伏となったのである。



その後の

日米半導体協定

日米構造協議…と続く

対米全面服従になっていったと言ってます。





う〜ん

真実はどこにあるんだろうか

犠牲者のご家族はやりきれませんよね。


合掌🙏



注意追記

YouTubeは規制がかかって消えてしまったりするので、コチラに文字起こしをしてあるFacebookを転記しようとしましたが、うまくできませんでした。

最後のまとめの一部だけでも添付しておきます


読み直して

ホントひどいものですえーん

これが真実なら









私の子供の頃の主治医の先生は
広島で被爆して
自分で手術をしたんだよ
と小さい頃から聞かされていました。


そういえば
皮膚が所々色素が抜けていたり
耳の辺りや手に手術の跡が見られた。

そしていつだったかな?

その先生が
井伏鱒二の『黒い雨』に出ていると知って

読んでみた。

すごい先生だったんだと

改めて思いました。



「黒い雨」というのは、

原爆投下後に降り注いだ、原爆投下時に生じた煤や放射性物質を含んだ、言葉通り黒色をした雨のことである。

つまり、

原子爆弾によって直接被爆しなかった場合でも

放射性物質を含む「黒い雨」を浴びてしまった人は

放射性物質に被爆し、健康被害が出ていたのです。


この物語は

実際の被爆者の日記や医療手記を参考に書かれているからリアルなのです。



私の中では

穏やかなおじいちゃん先生と上品な奥様。

昔の町医者だから

時々用があって奥様も診療室に入って来られると

一緒におしゃべりしたりしてました。

私が初ハワイに間も無く出発するという時も

ご自分のハワイ旅行の話をされたりしたなー

なんて事を思い出しました。

1980年代の事です。



星先生の手記によると


私の負傷は殆ど全部が火傷にようもので、頭、顔、頸、背中、双方の上膊部、手背、手首、手指のほか、耳朶にも火傷を受けていた。手首は皮膚が剥げ、背中は牛肉のようになって肋骨が見えるようになっていたそうだ。


『岩竹おりませんか。岩竹、おりませんか』と金切声を出す女の声を聞いた。これは妻の声だと分った。私は答えようとしたが、唇が腫れていて言葉が出ない。痛む左手を僅かに挙げた。


しかし私の顔は、妻でさえ識別できないほど変形を来たしていた



こんなに酷い状態でいたお二人が

にこやかに私の前にいたのだと

後になって知って

先生の運の強さを思わずにはいられません。



ご子息も皆さんお医者様で

通りを挟んで息子さんが耳鼻科の先生で

これまた耳鼻科系が弱い私は

よくお世話になりました。



秋には

初めて広島に行きます。


私の中での広島というと

『黒い雨』です。

読み直してから向かいたいと思います。



犠牲者の方のご冥福を
心よりお祈り申し上げます。


平和の中に暮らせる事に感謝🔔





先生の手記の最後に



「今では耳朶が一つ欠如して、酒を飲めば頬や手首の傷あとが赤くなるが、頑固な耳鳴りのほかは何等の後遺症もない。ただ耳鳴りは日夜ひっきりなしに遠寺の鐘のように鳴りつづけ、私自身にはそれが原爆禁止を訴える警鐘に聞きとれる」












映画『国宝』は歌舞伎の家の出身ではない女形が

努力を重ねて、人間国宝になるまでを描いています。



現在歌舞伎の人間国宝は、


立役

7代目尾上菊五郎、片岡仁左衛門、中村梅玉、


女形

坂東玉三郎、


脇役

中村東蔵、中村歌六の6人です。




歌舞伎は、江戸時代初めの1603年に、出雲の阿国という踊り子が京都で始めた「かぶき踊り」が起源と言われています。この阿国の踊りは爆発的な人気を博したそうで、彼女の「かぶき踊り」をマネをする遊女や女芸人たちもあらわれます。そしてこの女性たちが演じる「女歌舞伎」は、京都だけでなく江戸や地方など全国各地で大流行に…!
しかし、流行りすぎてしまったためか、

「女歌舞伎」には風紀を乱す要素があるということで、江戸幕府は女性による歌舞伎を禁止!そのため、女性が舞台に立てなくなり、女性の役も男性が演じる女方が生まれることになったのです。


ダイヤグリーン「立役(たちやく)」は「女方」に対する「男役全般」を指します。その語源は座って音楽を演奏する「地方(じかた)」に対し立って動作をする「立方」から転じたといわれます。


ダイヤグリーン「女方(おんながた)」は女性の役あるいはそれを勤める役者を指し、現実の女性の模倣ではなく芸の上で創り上げられた理想の女性像といわれます。「女形」という表記もありますが、「女性を演じる役割」という意味で「女方」が本来といえます。


ダイヤグリーン「脇役(わきやく)」は江戸時代には敵役(かたきやく)、親仁(おやじ)方、花車方(かしゃがた)などに分類されて専門の俳優がいたが、江戸末期以後は一般に主役以外の役柄の呼称となった。概して立役を補佐する役ではあるが、芝居の展開にとっては重要であったりする。


…歌舞伎用語案内より…


私の中では

女形と言えば玉三郎

当時一世を風靡しましたよね。




主人公喜久雄が歌舞伎の家の出身ではなく、

女形として人間国宝となったことから、

同じような経歴を持つ坂東玉三郎がモデルではないかと言われているようです。


星wikipediaより






東京の大塚で料亭を経営している両親の元で生まれるも、 1歳半で小児麻痺にかかり右足アキレス腱に麻痺が残る。

その後遺症のリハビリの為に日本舞踊を習う。

稽古に通った縁から十四代目守田勘弥部屋子となる(6歳の6月6日)。


2012年、

重要無形文化財『人間国宝』に認定される。
13年フランス芸術文化勲章最高章

「コマンドゥール」

14年紫綬褒章を受章。他、受賞多数。




「養父は芸に厳しく、私をほめてくれたことはありませんでした。今でも心に残っているのが、『いいと思ったら終わりだよ』という言葉。満足したら役者は終わり。父も自分にもいいと思った時期があったようで、失敗したと話していました。だからおまえに同じ思いはさせられない、と。そのくらい苦い経験をしたのでしょうね」


以来、養父からの教えを胸に、芸を磨き続けてきた。


「ゆうゆう」2025年2月号(主婦の友社)のインタビューより







五代目坂東玉三郎以外にも

梨園出身じゃない役者さんがいました。


キラキラ六代目片岡愛之助

工場を営む両親は、愛之助の習い事の一つとして松竹芸能の子役オーディションを受験させる。子役活動の一環で歌舞伎にも出演したことをきっかけに、十三代目片岡仁左衛門さんに見出され、二代目片岡秀太郎さんの誘いで片岡一門の部屋子(幹部俳優と楽屋を共にし、作法から芸までを間近で仕込まれる立場)へ転身することとなった。


キラキラ二代目中村鶴松

児童劇団からのオーディションを勝ち抜き、5歳で歌舞伎に初参加した。8歳の時に演じた『野田版 鼠小僧』の孫さん太の演技が注目され、十八世中村勘三郎さんの部屋子に。

2021年の八月歌舞伎で一般家庭出身としては異例の主役に抜てきされる。立役と女形どちらもこなす若きスターだ。



いやー今回

映画『国宝』を見て

歌舞伎に興味を持ち

色々調べると

奥が深いんですね。


東銀座は昔からよく行っていて

歌舞伎座は眺めていても

中に足を踏み入れた事ないから

ぜひ行ってみたいな!


お相撲はむかーし

父の代わりに見に行った事あって、

(蔵前の時代)

枡席ってこんなに狭いんだと驚きました。

今でもお土産は

お相撲さんの名入りの茶碗とかなのかな?