(以下、ハフィントンポストニュースより)
私はあるコメントを言われた後、怒りと悲しみに震えてこのブログを書きました。
それは今朝、私の娘ルイーズの定期健診中に言われた、
いくつかのコメントで、どれも私にとっては聞き慣れたものでした。
そのうちに慣れる。これらは単純な間違いなんだ、
自分の感情を抑えなさい、と自分に言い聞かせます。
しかし、時々いい加減にしてほしい時があります。
私はどうしたらもっと元気になれるのかを自らに問いかけ、
そして、他の人や自分にも同じことが頻繁に言われなくなるようにしようと思いました。
私はこの記事を書いてFacebookで公開しました。
この記事によって私の娘の違いについての話題を終わりにし、
これ以上説明しなくてもよくなる、と信じたいです。
それが難しいことは十分理解しています。
ただ、ほんの少しでも意見を変えることができればと思っています。
これが私の娘、ルイーズです。
娘は生後4カ月で、2本の腕、2本の足、2つの素晴らしいふっくらした頬、
そして1つの余分な染色体があります。
どうかお願いします。ルイーズのような子に会ったとき、
その子の母に「妊娠中に分からなかったの?」と聞かないでください。
たとえどちらの場合であっても、その子の母が
赤ちゃんを産むことを決意したことは当然と思います。
それを再び思い起こさせる必要がないのは十分、分かることでしょう。
その上、母親はありとあらゆることに罪を感じる悩ましい傾向があるのです。
余分な染色体を見つけることが出来なかったことも、そうです。
あなたに言う必要はありません。
彼女の母親に「何を差し置いても、彼女はあなたの赤ちゃんなのよ」とは言わないでください。
違います。まぎれもなく私の赤ちゃんです。
そして「何を差し置いて」という"名称"は醜いものです。
それよりルイーズの方がずっといいです。
彼女の母親に「なんて小さなダウン症の子供なの」などとは言わないでください。
違います。彼女は生後4カ月の子供でダウン症に苦しんでいる、
あるいは、あなたのお好みなら、ダウン症を患っている子供なのです。
この47番目の染色体自体が彼女ではないのです。彼女がそれを持っているだけなのです。
「なんて小さなガン患者なの」などと言わないのと同じです。
「この子たちはああだね、こうだね」とは言わないでください。
「この子たち」にはそれぞれのパーソナリティー、身体、味覚、人生があるのです。
あなたの近くにいる人たちと自分が違うように、ダウン症の子も違うのです。
人は実際に見ないと、そのことについて考えないことは分かっています。
でも言葉は重要なのです。言葉は人を癒したり傷つけたりします。
ですので、特に医学会のメンバーで白、ピンク、または緑のシャツを着ている方は、
まず言う前に少しの間考えてください。
私は通常自分の身分を皆さんに公開しませんが、この記事のために公開しました。
もしお望みならこの話題を広げたり、シェアしたりしてください。
なぜなら、毎年500人もの新しい「ルイーズの母」が
不親切な言葉で日々傷付けられているからです。
傷つけようとして言っているわけではないことは分かっています。
そのことを知っているだけで十分なのです。
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英文を和訳するひとのセンスが問われる記事だが、
フランス語記事を英訳したものを更に和訳する場合などは、
原文ともつきあわせて、何度も何度も、この表現でいいのかと、
確認しているのではないだろうか。
短文投稿のSNSなどに溢れる「リツイート」とは違う心遣いを、
このメッセージの和訳から感じた。
後述する内容を踏まえて、「障害者と呼ばれて」と題するつもりだったが、
記事を書いたジャーナリストと和訳者の思いをそのまま記した方がいいと思い、
タイトルを変更せずに綴ることにした。
日本語を別の日本語に置き換えることや英語を別の英語に置き換えることを、
日頃から意識しているひとがどれだけいるかわからないが、
額面通りには伝えられないニュアンスの違いというものがあることを認識していると、
記事の感じ方も違ってくると思う。
老若男女問わず、別の言葉に置き換える訓練、
あるいは、遊びをしてもらいたい。
俳句などに触れることは、いい訓練であり遊びになるだろう。
短文投稿のSNSでは、誤解も齟齬も生じやすいから、
言葉の置き方の訓練は、我々の時代以上にした方がいい。そんな風に感じた。
さて、「言葉は重要」というメッセージ。
初めて聞く台詞ではないから、わかった気になってしまうが、
言葉の言い回しなどに注意して、何度か読んでみると、
わかった気になって思い違いをしていた部分が見えてくる。
「障害者」に関する言葉ひとつをとっても、
たとえば、それをカタカナや英語で表現する時に、
どんな単語や言葉が思い浮かぶだろうか。
「ハンデキャップ」とか「ハンディキャッパー」を使うことが多いと感じるが、
英単語としては、「disabled」(ディスエイブルド)が一般的で、
「日常生活に差し支える障害がある方」の意味になる。
ハンデキャップは、「hand in cap」(ハンド・イン・キャップ)で、
帽子の中に手を入れる仕草から、「施しを受ける」「物乞い」を連想させるとのこと。
現在は、これを好ましいと思わない向きがあるようだ。
しかしアメリカでも、街の看板などの表記では、
まだ「ハンデキャップ」に由来するものを多く見かけるとのこと。
英単語ではなく「フレーズ」としては、
「a disabled person」(ア・ディスエイブルド・パーソン)、
複数形では「the disabled」(ザ・ディスエイブルド)が使われる。
しかし、より丁寧な表現として、
「a person with a disability」 (ア・パーソン・ウィズ・ア・ディスアビリティ)
複数形では「people with disabilities」(ピープル・ウィズ・ディスアビリティーズ)が、
一般的な表現になってきているようだ。
「形容詞+名詞」だと、名詞を形容する表現が強くなってしまう。
つまり、「障害」があることが強調されてしまうので、
障害がある前にまずアメリカ人であるとか、女性であるとか生徒であるとかを伝え、
「名詞 with 名詞」で、障害を付属的に表現するという流れになっているとのこと。
障害女性一般なら「women with disabilities」(ウィメン・ウィズ・ディスアビリティーズ)となる。
ところが、そうした表現が知れ渡るようになってくると、
今度は、付属的な「with」を嫌うという流れが出てくる。
障害はアクセサリーではない。
これは自分の重要な個性であり、アイデンティティーであると、
障害者が自ら積極的に強調表現するようになっているそうだ。
もちろん、アメリカの場合と欧州の場合とでは、考え方も違うだろうし、
同じ英語圏でも、アメリカとイギリスでは考え方が違うだろう。
そこは、対象がどんな表現を使っているのか、
相手の言葉に鑑みて、語句を選べたらと思う。
日本はどうか?
障害者を「障碍者」「障がい者」とする配慮はあるが、
英語の変遷ほどに、言葉には変化を感じない。
障害者を取り巻く環境は、20年、30年前に比べたら、
格段によくなっている一方で、障害者が働く施設などで、
つい先日も、障害者に対する暴行が発覚するなどの事件が起きている。
障害を個性として捉える向きを評価しながらも、
その実は、まだ障害者と一括りにして呼んでいる。
そして、一部ではあろうが、搾取の対象と見下している節もある。
「このままではいけない」と感じたら、使っている言葉を軽視しない方がいい。
法律では「障害者」と表現するが、啓発的に障がい者を使うなど、
意識の置き所を変えてみることも必要だ。
ひとは、自分と違う、周囲と違うことに不安を感じるから、
それが無視や嫌悪という排他的な感情につながってしまうことがある。
ひとと違うことはいいことだと言いながら、
障害者と一括りにしてしまっている現実を知り、
そのことに心を痛めているひとがいることを覚えておきたい。
たとえば、「ろう」であれば、自分を「ろう者」として自己紹介する。
英語で「deaf」(デフ)と言うが、パラリンピックのように、
「もうひとつの」のような比喩的表現ではなく、デフリンピックとして、
直接的に、積極的に、ろう者として生きている意思を伝えている。
昔は、「聾唖」(ろうあ)と言った。そうしたひとをおしなべて「聾唖者」と言った。
それは、耳が聞こえないのだから話せないだろうという論法で、そう呼ばれた。
現代の医学的な見地に立って考えれば、適切な表現とは言えない。
正確にはっきりとではなくとも会話が成り立つ場合もあるし、
何より、手話は、もうひとつの言語。
言葉が話せない、気持ちが通じない訳ではない。
日本語は日々変化することを受け入れて成り立っている寛容な言語だと思っていたが、
日本語を使う日本人が、障害に関しては、ナイーブな問題と決めつけて避ける傾向にあると言うか、
変えるための議論には慎重で、後ろ向きな節があると感じた。
以前、乙武さんは、「黙っていられるよりも、どうしたらいいかと聞かれた方がいい」と言っていた。
もちろん、そのようなはっきりしたひとばかりではないだろう。
今まで、障害者やハンデキャップなどの言葉をあまり考えずに使ってきた。
英語での表現を含めて、これが正しいという決まったものはないようだ。
今の流れでは、こっちの方が好ましいというものがあるから、
そうした言葉を知っておくと、全体像が近づいて感じられるだろうし、
意思の疎通とまでは行かなくとも、誤解したままでいる状況は減らせるだろう。
障害者や障がい者など、どちらを選んでもいい場合、どの表現を使うか。
それを選ぶ基準は、好みにあると言っても過言ではない。
ただそれが、文字のおさまり具合、読後感の好みに左右されたり、
「聴覚において克服しがたい状況を抱えているひと」の表現がしっくりくるのに、
状況を一切省略して、「聴覚障害者」で済ましてしまうことは、
そろそろ卒業した方がいいのではないかと感じるようになった。
5年、10年後でも、表現の仕方は変化しているに違いない。
「正解」がないことは、ひとを不安にもするが、
よりよくなる余地を残しているとも言える。
「言葉は重要」というメッセージに対して、つらつらと綴ってしまった。
表現の仕方を改めようと感じた言葉が見つけられたなら、
嬉しいなどと言ってしまうのはおこがましい話だが、少しは役に立てた気がして嬉しい。
(参照)
天皇皇后両陛下、元ハンセン病患者とご懇談 - 2015年1月29日過去記事より
http://ameblo.jp/aloha-spirits-yoshi/entry-11982965825.html
サリドマイド、50年目の謝罪 - 2012年9月3日過去記事より
http://ameblo.jp/aloha-spirits-yoshi/entry-11345101922.html
「輝く人」の話 - 2015年5月16日過去記事より
http://ameblo.jp/aloha-spirits-yoshi/entry-12027254613.html
「奇跡の人」 - 2015年4月14日過去記事より
http://ameblo.jp/aloha-spirits-yoshi/entry-12013589267.html