しあわせ運べるように | 同じ空の下で ~ To you who do not yet look ~

同じ空の下で ~ To you who do not yet look ~

まだ見ぬあなたへ。僕らは、同じ空の下にいながらも、それぞれの感じ方で生きている。
「偶然は必然」というように、僕らを直接結びつけるものはなくても、意図しない形で、思いもよらない所で、あなたと私がきっかけひとつで繋がったことに感謝☆





(以下、神戸新聞NEXTより)


6434人が亡くなり、3人が行方不明になった阪神・淡路大震災は17日朝、

発生から20年を迎え、各地で追悼行事が営まれた。

4564人の命が奪われた神戸市では、世代交代や転出入に伴い、

震災を経験していない市民の割合は4割を超える。

経験と教訓の次世代への継承が課題になっている。


被災者らが入居する災害復興住宅は、

都市再生機構(UR)から団地ごと借り上げたものも含め、県営と11市営の計273団地。

被災者でなくても入居できるが、転居や死亡があり、

01年の調査時に4万3283人だった入居者は14年に3万5796人に減少した。

入居世帯も01年より3807世帯減。

一方、高齢化率(65歳以上)は、14年11月末時点で50・2%に達した。

「団塊の世代」が65歳を迎えていることが主な要因とみられるが、

県が調査を始めた01年以降、5割を超えたのは初。

単身の高齢世帯率も46%と上がり続けている。

入居者の高齢化に対応した見守り態勢強化が課題となっている。


同住宅で、1人暮らしの入居者が誰にもみとられずに亡くなった「独居死」は、14年で40人。

データの残る00年以降では計864人。

同年に解消された仮設住宅でも233人が確認されており、

この20年間で両住宅での独居死者数は少なくとも1097人に上る。

各市は「阪神・淡路大震災復興基金」を活用し、

高齢化率の高い56カ所で「高齢者自立支援ひろば事業」を実施。

平日は空き部屋や集会所に生活援助員(LSA)2人が常駐し、

見守りや健康づくり、コミュニティーづくりのサポートに取り組んでいる。


兵庫県中小企業家同友会と神戸新聞社が同友会会員企業約1400社を対象に

震災の影響について尋ねた結果、12%が「影響が残っている」と回答。

売上高も約3割が震災前比で「減った」と答えた。

被災の打撃を克服した企業が多いが、金融危機やデフレ不況などが重なり、

取引先の減少や借入金など震災による負担を現在も引きずる姿が浮き彫りになっている。


20年契約で借りた復興公営住宅(借り上げ住宅)が15年度から順次返還期限を迎える問題では、

神戸市は希望移転先を最優先で確保するなどの住み替え支援策を講じているが、

入居者からは継続を求める声が上がっている。


市民団体のまとめでは、震災20年に合わせた市民による追悼行事は、過去最多の110件。


神戸市中央区の東遊園地では午前5時から

「1・17」の形に並べられた竹灯籠にろうそくがともされた。

地震の発生時刻の同46分には、亡き人を思い遺族らが手を合わせた。


芦屋市の会社員、宮原義男さん(32)は、

弟の遺影と「クマのプーさん」のぬいぐるみを抱え、語りかけた。

「元気でいるよ。心配しなくてもいいからな」。

自宅は全壊。2階で両親と寝ていた和夫君=当時(4)=は倒れたたんすの下敷きに。

母親の喜代子さん(54)が握る和夫君の手は次第に冷たくなった。


がれきの中から取り出した「プーさん」は和夫君が大切にしていたもの。

20年の歳月の中で傷みも目立ってきたが、リビングに飾り、家族旅行する時は持ち歩く。

「心の中で子どもはずっと生きています」と話す喜代子さんの目に涙がにじんだ。 



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(以下、神戸新聞NEXTより)


阪神・淡路大震災の発生から丸20年となった17日、兵庫県内各地で追悼式典が開かれた。

神戸市中央区の県公館での式典には、震災10年の2005年以来、

10年ぶりに天皇、皇后両陛下が出席。

各会場では参列者が犠牲者を悼み、復興の道のりに思いを寄せた。


県などが主催する式典は、5年ぶりに県公館とHAT神戸(同市中央区)の2会場であり、

遺族や政府、県内市町、企業関係者ら約730人が出席した。

県公館では、井戸敏三知事が「震災を乗り越えてきた力を結集し、

安全で活力ある新時代の兵庫を築く」との決意を述べた。


両陛下は犠牲者名簿が供えられた祭壇に献花された。

式の後には、防災学習に取り組む舞子高校環境防災科の生徒らの話に耳を傾けられた。


神戸市などによる追悼行事は未明から三宮の東遊園地であり、

「1995 1・17」の明かりが浮かぶ中、人々が手を合わせた。


阪神間の3市も、10年ぶりに式典を開催。

西宮市のアミティホールでの式典には約950人が出席した。

宝塚市の宝塚ホテルでは、遺族ら約200人が祈りをささげた。

芦屋市のルナ・ホールでも午後開かれる。

淡路市の北淡震災記念公園では約300人が出席し、全員が献花した。



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(以下、神戸新聞NEXTより)


地域経済に打撃を与えた阪神・淡路大震災から17日で丸20年。

兵庫県は当初、「10年以内に震災がなかった場合の成長軌道かそれをしのぐ水準」を目指し、

復興プロジェクトを推進した。だが、バブル崩壊後の県の年間平均成長率は0・1%で全国45位。

経済環境の激変が響いたが、復興政策の失敗を指摘する声も少なくない。


「震災、不況、借金の三重苦と闘っている」。

金属加工や電子部品などの中小約20社でつくる

協同組合産団協(神戸市西区)の大島孝理事長(85)=大島金属工業会長=が嘆く。


被災後、各社は元の場所では仕事ができなかった。再開が遅れれば仕事を失う。

そこで1998年から同区の神戸複合産業団地に集団で移った。

「進むのも引くのも地獄」。神戸市から1坪50万円で土地を購入した。


周辺では今も市が誘致を進めるが、土地代は当時の半値以下。

不況で仕事量は激減し、組合各社の借金返済は半分を超えた程度だ。

「実勢を超えた土地代が足を引っ張る。被災企業への復興支援とは何だったのか」


神田栄治・兵庫県立大客員教授(69)=地域経済論=は被災地経済の長期停滞について

「中小企業は過重な借金を背負ったまま走り続けざるを得なかった。

人口減や市場縮小によるサービス業など内需型産業の低迷の影響も大きい」と分析した。


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兵庫県の産業復興計画にはこうある。

「3年以内に純生産を震災前の水準に回復させ、

10年以内に震災がなかった場合の成長軌道へ、あるいはそれをしのぐ水準を目指す」。

しかし98年度以降、工場の閉鎖や移転、神戸港の衰退が加速した。


復旧を超えた「創造的復興」を目指す官民は起爆剤となるプロジェクトを進めた。

関税減免で企業を呼び込むエンタープライズゾーン構想▽上海・長江交易促進プロジェクト

▽マルチメディアを活用した体験型集客施設を整備するKIMEC(キメック)

(神戸国際マルチメディア文化都市)-などだ。


結果、エンタープライズゾーンは国が制度を認めず、

上海・長江やキメックは成果を挙げられなかった。

「復興政策は暗然たる失敗」。震災当時、関西経済連合会会長で

政府の復興委員会委員も務めた川上哲郎(86)=住友電気工業名誉顧問=の指摘だ。

「神戸港の機能強化など効果のある施策が実行できなかった。

今になって特区をやっているが、遅すぎる。重要な機会を逃した」と悔やむ。


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中長期的な雇用創出も課題だ。県内の有効求人倍率は0・91倍。

回復基調だが、リーマン・ショック後、全国との差が開く。

震災直後、神戸で雇用創出に取り組んだ人材派遣大手パソナグループ(東京)は近年、

淡路島で農業や若者の芸術活動を生かした人材育成事業を強化。

南部靖之代表(63)「住む人が増えれば雇用は広がる。新たな産業づくりが必要だ」と指摘する。



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「20年」の歳月を、安易に節目と捉えたくはないが、

改めて、こうして皆が同じことを考える日があることは、

生かされている身としてありがたい思いでいっぱいになる。


直接的に被災の経験があろうがなかろうが、

こうした映像や写真に触れると涙が込み上げてくるのは、

自分もそうした命の上にあるからだろう。


「鎮魂」とはよく言ったもので、慰霊の気持ちばかりでなく、

自分の中の不安定な気持ちが落ち着くような気がした。







天皇、皇后両陛下ご出席の追悼式典の記事に、舞子高校が出てくるが、
この高校には、全国唯一の「環境防災科」がある。

2002年に新設され、これまでに約400人の卒業生を送り出した。


環境と防災を結びつけて学ぶ環境防災科は、

校外の専門家を招いて、授業や実習が行われており、

こうした取り組みは、もっと全国に広がればいいのにと感じた。


東日本大震災の被災地を訪問した生徒たちは、

多くの犠牲者を出した大川小学校で、

自らも被災し、自分の娘を失った語り部の先生から、

避難するために外に出てから橋に向かうまでの話を聞き、

自らの体で追体験した。


真面目な生徒たちは困惑して、

泣き出したり、申し訳ないとつぶやいたりした。

気持ちをどう表現したらいいのかわからない生徒は、

自分の無力さを痛感して、自分を責めていた。


語り部の先生の娘さんが生きていれば、自分たちと同じ高校1年生と知り、

何かをノートに書き綴っていた生徒がいた。


思っていることをうまく口にできないもどかしさだとか、

この経験を地元に帰って伝える時にどう話したらいいか、

どんな活動につなげたらいいか、うんと悩んだらいい。


わかっていてもできないことがある。

今はわからないままでもいいことだってある。


環境防災科を卒業して、大学で専門知識を学んだり、

自衛隊や消防隊員になった生徒もいるが、

もちろん全員が全員、そんな道を進む訳ではない。


「専門家にならなくてもいい、地域の防災リーダーになってほしい」

舞子高校の先生は、そんな思いで生徒を見守っているそうだ。





東日本大震災の発生時刻にも、祈りが捧げられた。


「神戸が宮城の模範にならなくては」

式典に参加していた女性が、そう話したのが印象的だった。


心の復興ばかりではない現実もある。

神戸の20年は、東北の被災地の課題を示してくれる。


この経験が、他の地域の幸せにつながるように、

今一度、祈りを捧げたい。







(参照)


阪神・淡路大震災から20年

https://www.youtube.com/watch?v=V5M2a8ywxPg&pmt=18


しあわせ運べるように

https://www.youtube.com/watch?v=yxw5YuMwBXM&pmt=18


あれから20年 震災の記憶 - 2015年1月14日過去記事より

http://ameblo.jp/aloha-spirits-yoshi/entry-11977101843.html