(以下、産経新聞ニュースより)
【日本は劣化のスパイラル】
「北の住人」は怒っていた。
いまだ経済中心の発想から抜け出せない社会、幼児性を強める現代の若者たち、
そして、ホームグラウンドだったテレビ界にも…。
“劣化のスパイラル”に陥っているという日本。
それは従来のシステムがもはや「臨界点」に達しているからではないのか。
-26年間続けた「富良野塾」を3月いっぱいで閉めるそうですね。理由はなんでしょう
(倉本)
まず僕の非力がひとつ。
塾生を教えること、(脚本などを)書くことを個人でやる限界を感じていました。
教えるにはエネルギーを使うし、いらついて爆発することもある。
イヤな気分を引きずったまま、また書く…の繰り返し。
かといって、僕が書くことをやめると、塾生は来ない。
この26年、どれほど精神安定剤を飲んだか分からないですよ(苦笑)。
自分なりにやれることはやったけれど、「結果」はあまり出なかったような気がしますね。
-閉塾を残念がっている若者たちも多いのでは?
(倉本)
どうですかね。昔と今とでは入ってくる塾生が違う。
「プロになる覚悟」が欠けているのです。
シェークスピアもイプセンもチェーホフも読んでいない。
演劇を志す常識も知らない…まるでカルチャーセンターに入るような感覚ですよ。
せめて「大学生」なら教えられるけど、「幼稚園」から教えるのはつらい。
今の若者に一番足りないのは「想像力」じゃないかな。
情報はネットから入ってくるから自分で考えない。
1次情報から類推して考えたり、新しいものを編み出したりすることがないのです。
-では、2つめの理由は「若者たちへの失望」ですか
(倉本)
多分にありますね。
今どきの若者はみんな優しいんだけど、本当の優しさじゃない。
“優しさごっこ”です。人間関係が希薄なんですね。
しかられたことがないヤツも多い。
塾生に、ちょっと声を荒らげると頭の中が真っ白になってしまう。
これは親が悪い。
家庭の中で煩わしいことを起こしたくないから、
しからないし、殴りもしない。甘やかすだけです。
この国に軍隊を作れば、きっと“世界最弱の軍隊”ができるでしょうね(苦笑)。
今の日本は親がダメ、教師もダメ、だから子供もダメになる。“劣化のスパイラル”ですよ。
-その図式は日本の社会全体にも当てはまる
(倉本)
戦後60年も続いた「経済力本位の社会」も、
いろんなほころびが出て来て、もはや臨界点に達している気がします。
僕は物質文明と真逆の生き方をしてきましたから、
そもそもなぜ、そんなに経済に頼らなければならないのか、理解ができませんけどね。
-政治はどうです? 民主党政権をどう見ていますか
(倉本)
国民には自民も民主もない。「政治」を見ているんです。
良いものは良いし、悪いものは悪い。
例えば、「事業仕分け」は、いろいろ批判もあるけれど、
これまでの政治ができなかったことでしょう。
「脱官僚」だって、重箱の隅をつつくようなことはよくない。
確かに、天下りで年収2千万円ももらうヤツが何人もいちゃあ困るけど、
役所を定年になって、従来の給与の3分の2や1で雇うならば、目くじらを立てることもない。
そういう意味じゃ、政治やメディアの報道の方こそ古い構造から抜け出せていない。
むしろ国民の意識に置いていかれている感じがしますね。
-最近のテレビをどう見ていますか。バラエティー、お笑い番組全盛で、いつも同じ顔ぶればかり
(倉本)
全く同感ですね。
こうした番組は「数字(視聴率)が取れるから」というけど、
視聴率調査はそもそもCMがどれぐらい見られているか、の調査ですよ。
つまり「経済ベース」でモノを見ている。
本当にどんな番組が見られているのかを調べるなら
国(総務省)が主導して録画率まで調べるべきでしょう。
-ドラマはどうですか
(倉本)
まったく見ませんね(苦笑)。
見ると、どうしても批評家になっちゃうんですよ。「こうすりゃいいのに」ってね。
テレビも視聴率(つまり経済本位)ばかりに目が行って
“劣化のスパイラル”に陥っている気がします。
こっちも視聴者の方が、ずっと先を行ってますよ。
【プロフィル】倉本聰 くらもと・そう
昭和10(1935)年生まれ、75歳。東京都出身。東京大文学部卒。
ニッポン放送を経て、脚本家として独立。52年には北海道・富良野に移住。
59年、役者やシナリオライターを養成する富良野塾を開設(今年3月末で閉塾)。
代表作に「北の国から」「前略おふくろ様」「風のガーデン」など。
富良野塾26年の総決算となる舞台「谷は眠っていた」は15日から全国で公演。
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対談形式で書かれた内容を読むと、なるほどもっともだと共感できる部分が多い。
「教える」立場にあるものにとって、歳月は気力と体力を次第に奪っていく。
学校の教師で考えてみると、教師は毎年確実に1つずつ年を重ねていくもの。
一方、学生生徒の年齢を考えると、個人は同様に年を重ねるものの、
去年の高校1年生は16歳だったが、今年の高校1年生は18歳だということはなく、
受け持つ学級に所属する学生生徒の年齢はそのままである。
仮に毎年同じ教材で授業ができるとしても、
その題材に費やす研究時間は、経験とともに減っていくとしても、
そこで得られた時間は、担当の子どもたちに注がれるかと言えば、
決してそうではない現実がある。
教師が疲れていると言われて久しい。
教師は尊敬を集める憧れの職業から、報われない職業のひとつとして、
今やなりたくないうちのひとつになってしまっている。
現に、東京都の教職員採用状況は、猫の手でも借りたいほど人材不足らしく、
高い教育を受けて人間的に魅力のある学生は、
いろいろと気苦労の多い都会の教員を目指すことなく他県を希望し、
多くの学生は他の職業を目指してしまう。
それ故か、専門知識も乏しくストレス耐性も低い教員が、様々な問題に晒されて、
それがすべて学生生徒の能力や人間性に影響を及ぼしてしまう。
もちろん、教育は学校だけが行うものではなく、
基本は親が子どもをしつけられないことにある訳で、
学校と親のどっちがいけないではなく、子どもがどこに身を置いていても、
心のより所となる場所や、存在が見つけられないようだと問題だ。
また情報過多によって、未成熟なうちから、
ヘンな知識だけは手に入れることができるので、
子どもは限られた自分だけのスペースを確保しながら、
面倒なことには直接的に関わらずに広く交流する術を身につけてしまう。
学校という場が、従来担っていた小社会の役割が崩れ、
尊敬の対象さえも学校内に存在しにくくなったのかもしれない。
本来なら、同じぐらいの年齢の集団にあって、
様々なことを経験しながら社会に旅立っていくものが、
にわかに社会とつながっていることで、同世代を軽視してしまい、
共同作業ができないとか、嫌なら他を選ぶような傾向が強まっているのではないだろうか。
「想像力が足りない」「優しさごっこ」「劣化のスパイラル」という、
倉本氏の指摘はもっともだと思う。
生きてきた環境によって違うが、
耐えがたい苦痛、思い出したくない過去は誰にでもある。
戦争を生き抜いたひとのそれと、高度経済成長期を支えてきたひとのそれ、
バブル崩壊を経験した第2次ベビーブーマーのそれと、平成生まれのひとのそれ。
物質的に豊かな今よりも、貧しいかつての方が、
知恵もあったし人情もあったし、根性もあった。
それでは現代人が感情を忘れた人形かと言うと、
環境に対する意識やボランティアなどへの関心は決して低くはない。
頭を働かせることはできても、どう動いたらよいか、
行動に起こす方法を与えられればできるのだと思う。
「想像力」は「創造力」でもあって、
もっと五感を研ぎ澄ませて、感動体験をする必要があるだろう。
あなたは文明に 麻痺していませんか
石油と水は どっちが大事ですか
車と足は どっちが大事ですか
知識と知恵は どっちが大事ですか
批評と創造は どっちが大事ですか
あなたは感動を忘れていませんか
あなたは結局何のかのと云いながら
わが世の春を謳歌していませんか
倉本聰
上の文は、富良野塾の起草文として倉本氏が掲げたもの。
舞台「歸國」ではないが、故国のために戦って死んでいった英霊たちが、
今のこの日本を見たら何と言うだろうか…。
富良野GROUP公式HP
http://www.furanogroup.jp/index.html