chijisen

地下鉄の中吊り。
この3人が誰だか知らないけれど、思わず「バカにしてるのか!」と言いたくなってしまった。
「今度の都知事は私が選ぶ」と言っているが、どう見ても、彼女達が現在の日本の、東京の抱えている様々な問題を理解しているとは思えない。どうせイメージだけで投票してしまうに違いない。候補者の名前をきちんと漢字で書けるかどうかも怪しい。

「なんか、この人イイ感じ~」
「この人、まじヤバソ~」
「なんとなく、いいかも~」

などということで選挙に参加されては困るのだ。そんなことなら投票しなくていい。選管を何を考えて選んでいるのだろうか。お子ちゃま達のセンター選びとは違うのだ。
同様に、「どうせ棄権するなら反原発候補に入れなさい」と、
FBなどで
堂々とあおっている人も恐ろしい。選挙は遊びではない。主体的に何の意見も持たない人間を、「どうせ棄権するなら」と誘導しても意味がない。判らない、選べない人は棄権すればいいのだ。その代わり、棄権したら後々何が起きても文句は言えない。棄権するにはそれなりの覚悟も要る。選挙権を得て、初めて投票する人も多いだろうが、誰の意見に賛同するか、どこの党が本当にみんなのためになるか、判らないなら参加しないでほしいのだ。理由無く、なんとなく投じた一票が、日本をとんでもない方向へ導いてしまう力になるだって、あり得るのだから。


アパート


陸前高田から仙台へ、高速バスで移動。車窓から見える風景は、ひとつひとつが心に突き刺さる。

殆どの建物が土台だけになった高田の町に、ポツンと取り残されたように建っている集合住宅がある。集合住宅だけに、先へ進むためには解決しなければならない問題が多いのだろう、取り壊されることなく放置されている。多くの部屋の窓にカーテンが残り、畳やマットレスがのぞいている。垂れ下がったエアコン、ベランダから階下へ垂れた受話器、駐車場だったと思われる場所には、瓦礫が積まれたままだ。3階建てという比較的低い高さ、海に向かって縦に造られた構造から、津波を広い面積で受け止めなかったとことが、建物がそのまま残った理由だと思う。
全部でいくつの部屋があるのかは判らない。それでも、それぞれの部屋にはそれぞれの住人の暮らしがあったはずだ。家族の生活があったはずだ。この集合住宅の住人達が、今、どこでどう暮らしているのか、それは想像することも出来ない。しかし、2011年の3月11日から、大きく変わったことは、容易に想像出来る。たくさんの夢や将来への思いが、突然どこかへ流されてしまったのだ。もし、自分の身に同じ事が起きたら、果たして立ち直ることが出来るだろうか?もう一度、夢に向かって歩き出せるだろうか?
「前を向いて、頑張りましょう!」
そんなことは、軽々しく口に出せない。
この集合住宅の脇を通るたび、自分の無力を感じ、とても辛くなる・・・。


気仙沼

気仙沼の街で見かけた光景。

車道に面した一角には、かつて何らかの店舗が存在したに違いない。歩道から店舗へ続く傾斜部分には、波形にデザインされたタイルが張られている。センターの出入り口は、人の重さに反応する自動ドアだったと思われる。ドアの両側に張り出した部分はショーウインドーで、床のタイルの残骸からして、向かって左は独立したディスプレー・コーナー。右は店舗内が見渡せるガラス張りだったのかも知れない。ドアの右にはタイルの張られていない部分があり、そこにはキャッシャーがあったはずだ。勝手な想像だが、喫茶店か洋品店だったと思う。
信号待ちで止まったバスの窓から、偶然見かけただけなので、実際ここに何があったかは判らない。それでも、去年の3月11日まで、この場所には暮らしがあったのだ。店の経営者の、そして店を利用する人達の息づかいがあったのだ。いつかまた、ここに店が建ち、人が集まり、笑顔が溢れることはあるのだろうか。それとも新しい都市計画の一部に取り込まれ、別の何かに生まれ変わるのだろうか。

信号が変わり、動き出したバスの窓から遠ざかって行く光景が、いつまでも心に引っかかっていた。