最近、ネットでスピリチュアル系の記事を目にしたりすると、たまに「人間が神様や宇宙を従えているのか?」と思えるような内容の言葉に出会って驚くことがあります。
そして、そういう記事には定番のようにセミナーなどの案内。
それで思いました、これほどに人の心を自己中心的にさせるエゴ(自我)の性質は本当に怖いなと。
自分の目的を果たすために神の御名やイエスの御名を利用する者は、真理の御霊に対する赦しがたい侮辱をしていることになる。
と語るのは、神の愛がどういうものかを知った臨死体験者。
今回は、その臨死体験でイエスや天使たちと出会ったと語るハワード・ストームさんの著書『臨死 そして与えられた2度目の人生』より、神の愛と自己中心的なエゴについての話です。
その著書から抜粋してご紹介します。
私たちの自己中心的なエゴは人生の経験に基づいて形成されるが、悲しいことに、エゴは神との関係を壊してしまうのだ。
自分が宗教的だと思っている人たちでさえも、自己中心的な目的のために神を操ろうと試みることがある。
私たちの卑しい霊を神に投影させて利用しようとすることは、本来の意図を捻じ曲げることであり、神に対する最も大きな冒涜である。
すべての人々に注がれる神の愛を理解することは、神の愛を知るための土台である。
自己中心的な神の見方は、一定の部族や民族の中にだけ神の愛を見つけようとする。
神の愛はどんな個人、種族、国家、宗教、組織にも限定されることはないのに、私たちの文化的な偏見が自己中心的な集団としての誇りを生み出すのだ。
私たちは特定の文化の中で育った限りある生き物であり、文化によって形成されるのだが、神を知りたいと望むなら個人や集団としての高慢を手放す必要がある。
しばしば私たちは、神が自分たちの特定グループだけを愛している、と思ってしまう。
私たちは、自分のグループの外にいる者たちを神の愛の外にいる者として排除するのだが、これは神の御心に反することである。
神のすべての人に対する愛は、私たちの想像を絶するものである。
神は私たちを見守り愛し、敬虔な人として生きるようにいろいろなかたちで影響を与えようとされておられるが、神が私たちを支配することはない。
もちろん支配しようと思えばできるのだが、自分たちの蒔いた種の刈り取りをさせることも神の愛であり、ご性質でもあるのだ。
本からの抜粋は以上です。
「神の子」 と呼ばれたイエスの使徒となり伝道した者も、
そして臨死体験者も語った 「神は愛である」。
その意味は、どこかの誰かのセミナーなどで受講しなくても、
映画の物語でも気づけることなんじゃないかなと思います。
誰の内にもその愛があり、それを表現するか しないかだと。
それは、ミュージック・ビデオを観ても気づけるかも。
今回の曲は、ドリー・パートンとシーアの歌で『Here I Am』。
なんか今年はシーアの歌によく出会うなぁ。
Here I Am / Dolly Parton, Sia