前回は、のちに「キリスト」と呼ばれた、ナザレのイエス。
今回は、悟りを開いて「ブッダ(仏陀)」と呼ばれた、
ゴーダマ・シッダールタ(釈迦)の物語。
キアヌ・リーブス主演の映画『リトル・ブッダ』から、シッダールタの悟りを開かせまいとする魔王の誘惑シーンを紹介します。
動画に日本語字幕が付いていませんので、
映画の字幕版から書き起こしています。
「少女:」「少年:」「僧侶:」「魔王:」「シッダールタ:」が
書き起こした部分です。
まず、紹介する動画の前の部分から…
シッダールタは王子として生まれ裕福な生活を送っていたが、
老病死の苦を知り、その生活を捨て真理の探究を決意する。
6年間の苦行を経たある日、老楽士が弟子に言う言葉を聞く。
「弦は強く張りすぎれば切れる。緩めすぎても弾けなくなる」
この単純な言葉が持つ真実に、シッダールタは真理を悟る。
「悟りへの道は『中道』にある。苦楽の両極端にはない」
苦行に終止符を打ち、菩提樹の下で瞑想に入る。
子どもたちに僧侶がシッダールタの悟りの瞑想を伝えるシーン。
少女:
王子はこの木の下で悟りを開いたの。 これとよく似た木よ。
少年:
ノルブー師、本当なの? 王子の木と似てる?
僧侶:
同じような木だろう。 ブッダガヤの村はずれにある。
シッダールタは大木の下に座っていた。
すでに中道を見いだし、体も健康だった。
そこへ、5人の娘が現れた。
純真な村娘を装っていたが、
実は5人は魔王マーラの娘たちだった。
すなわち「慢心」「独占」「恐怖」「無知」「執着」だ。
魔王は娘を送り込み、王子に悟りを開かせまいとした。
シッダールタを誘うかのように目の前で踊る娘たち。
少年:
そばに行く。
僧侶:
魔王は最も賢明な方法で王子を誘惑した。
人間の欲望を美の中に隠したのだ。
しかし、王子は姿に惑わされなかった。
魔王は激怒した。
魔王が姿を現し、娘たちは枯れ葉となり風で消え去る。
その風が吹き荒れ嵐になるが、心は平安なシッダールタ。
次に、彼の前に大軍が現れ、一斉に彼に向け矢を放つ。
しかし、矢はシッダールタの目前で花びらとなり地に落ちる。
僧侶:
魔王は戦いに負けたかのように見えたが、あきらめてなかった。
また王子に挑んできた。
水の中から、シッダールタの姿をした魔王が現れる。
魔王:
苦難の道を行くあなたは、神ですか?
シッダールタ:
家を造る者よ、やっと見つけた。 もう造らなくていい。
魔王:
だが、私はお前の住む家だ。
シッダールタ:
自我よ、お前は妄想だ。 存在などしない。
地がそれを知っている。
魔王がその実体を現し、シッダールタの前から消え去る。
魔王の誘惑を退けた彼は、悟りを開き光り輝く。
僧侶:(動画のあとの部分)
シッダールタは魔王を打ち破った。
純粋に愛の力と慈悲の心によって勝ったのだ。
「欲望」「恐れ」「個の思考」というエゴの誘惑を退け、
シッダールタは悟りを開いた人「ブッダ」となり、
40年以上に及ぶ伝道を行いました。
ブッダは生涯を終える直前に弟子たちに、こう言いました。
「汝らは、自らを灯明とし、法をより処として、
他のものをより処とすることのないように」
自身の心に耳を傾け、真理(法)の愛を人生のガイドとして、
他のものに惑わされずに生きなさい、と私は解釈しています。
人それぞれの内なる神(愛)が「自らの灯明」であり、
人の本質は「光の存在」ということなのでしょう。
「法をより処として」の言葉はまさに、
ヨーダが言った「フォースと共に」と同じに感じます。
中道の真理を悟ったあとに魔王の誘惑を退けた釈迦と、
洗礼を受けたあとに悪魔の誘惑を退けたイエス。
伝道を始める前に受けたエゴの誘惑が、どこか似ていますね。
最後に、映画の終盤にある心に残った言葉を紹介します。
老いも死もない。 老いや死がなくなることもない。
苦しみもなければ、その原因もない。
道もなく、知恵もない。 得ることもない。
ないがゆえに、求道者は知恵を完成し、
心を曇らせることがない。
曇りのない心に、恐れはない。
煩悩を断ち切った境地、涅槃(ねはん)を求めよ。
映画『リトル・ブッダ』英語版予告編

