そうやって、勉強に関しては「親が勝手に見つけてきては、塾に行く」が
繰り返された。
それを苦痛だと思う子供ではなかったけど、ありがたいとも思わなかった。
むしろ、塾に行っていて成績が悪ければ突っ込まれるのだから
少し迷惑と言えば迷惑だ。
話を少し兄に向ける。
彼はとにかく勉強が嫌いで、学校の先生からも
「この子をイスに座らせておくのはかわいそうだ。」と言わせてた。
しかし兄はバカ(あくまで勉強ができないという意味)だったとは
思っていない。何でも「向き不向き」があるだけなのだ。
兄はランクだけで言えば、私より一つ下の高校に行った。
無理して上の高校の一番下にいるよりも、入れる学校で、
真ん中ぐらいでいる方がこの子のためだという担任の進言があったらしい。
高校での兄は私とは対照的だ。
マンガを読み、テニスをし、好きなようにしていた。
兄の進路を決めるとき、父が言ったそうだ。
(関西内の私立(国公立は無理)で、ある程度のランク付けをした上で)
「このライン以下なら行く必要はない。」と。
彼はあっさりと「行かない」を選択し、その時に
「あいつの方が勉強向いてるし、俺のために貯めててくれたんなら
あいつに大学行かせてやって。」と言ったらしい。
それから親の教育がますます熱心になった事は言うまでもない。
勉強は出来て当然という雰囲気だったのだが、もう一つ厄介だったのが
「品行方正、明朗活発、良い生徒」でなければいけなかったことだ。
今思えば「学級委員」がなんぼのもんじゃい…なのだが、
小学校の高学年になってくると、3学期中一度は選出されないと
母の中でブーイングが起こっていたようである。
あれは…勉強が出来る人が選出されるという訳じゃないと思うけど。
そして中学生になって…
二年の時に生徒数が多すぎて2校に分割されたのだが、入学した時は
町内6つの小学校から集まって、一学年で13クラスあった。
6つの小学校から集まってくるわけだから、誰がどんな人かわからない。
当然、一学期に中央委員(学級委員)を投票で選ぼうにも出来ない。
だから一学期だけは中学側から指名される。併せて体育委員も。
私はその、親が喜びそうな中央委員には指名されず、体育委員に
指名された。母がどんな反応をしたのかは覚えていない。
中2、中3になってからは中央委員に選出されるようになった。
親としては鼻が高かったろう。
もっと喜ばそうと生徒会役員にもなったし、風紀委員長にもなった。
高校に入学して、別のもっといい塾を見つけてきたからピアノは
やめなさいと言われてやめた。そんなに好きじゃなかったし、
いい機会だった。
塾は家から遠くて、電車を使うと1時間半もかかった。
それを高1の終わりから高3まで、ほとんどを車で送り迎え
してくれた事は感謝する。
高2になって家庭内不和(夫婦間)が勃発し、離婚騒動まで発展したが、
私はクールさを押し通した。
父が飲んで暴れて、ガラスが割れる音を聞きながら勉強していた。
高3になって少し落ち着くと、またここでも厳しいライン引きがあった。
本当は私も国公立に行くべきだったのだが、英語と国語以外は厳しい。
センター試験は受けられない。でも短大ではダメだと言う。
ここで必然的に4年制の私立に決まるが、兄と同じ条件が出た。
何とかそれをクリアして入学した。
親が喜んでくれたのは、合格したその一瞬だっただけかもしれない。
随分と無理をして入学したので、一回生で落ちこぼれた。
その学校は一回生の秋までに4年間の基礎は全てやってしまう。
ここでつまずけば、残りの3年半は席を温めるだけの生徒になるのだ。
2回生になって母に退学させて欲しいと頼んだが無理だった。
大学を卒業させるのは親の夢でもあるのだと。
残りの時間は留年しないようにだけ気を付けて、パン屋にいそしんだ。
4回生の時に勝手に製菓専門学校を受験して、卒業後に進学した上に
学費が足りなくて、途中で働きたかった地元のパン屋に飛び込んだ。
もちろん、両親にすればものすごい裏切り行為である。
彼らは、父がそうであったように私も「名の通った」企業に入る事が
当然のことだったのだ。
裏切り者、泥棒、色んな言葉を聞いたがパン屋になりたかった。
けど、自分には自営業でやってはいけないとはっきりわかった時、
私はそれを辞めた。
そこから何とか名誉挽回しようとPCを習い、会社員になった。
でもそこが初めて経験する事業縮小による解雇。
その頃には日常的に「ごくつぶし」とか「恥さらし」と言われてたし
とにかく何か働くしかなかった。
そうやって最終的にコンビニ系の弁当工場の社員になるのだが、
そこでパンクしてしまう。社員で働いたのはこれが最後だ。
自己退職になったけど、職安側は「配置換え、もしくは転勤できれば
このような事態にはならなかった」と判断してくれて、失業保険は
すぐにもらえた。
それでも根性が足りなかったからだと言われた。
そしてこの間、その後勤めた(派遣)会社が業務縮小でなくなった。
これは私が望んだことではない。
だけど、やっぱりダメだった。
この正月に母から「パラサイト、寄生虫」と何度も言われて
なぎのとこに飛び出してきてしまった。
失業した始めの頃は、
「今度は社員になって、ずっと勤められるところを探しなさい。
焦ってつまらない会社に行かないように。」そう言ってくれた。
だから私もそのように考えてたつもりだった。
でも最近は…
「何をしている?派遣でもバイトでもいいからどこでも働け。」に変わった。
こういう母の一言一言に私は惑わされてしまうのだ。
これをこの間帰省した時、なぎの目の前で言われた。
だからなぎもこの母の一連の言葉の流れは知っている。
「もうなあ…悲しいけどあのお母さんは、あるもちゃんが
派遣で働いたとしても、社員になったとしても、満足してくれんと思う。」
「だからもう、お母さんが満足いく会社や人生じゃなくて、
あるもちゃんが働きたい会社、生きたい人生を生きたらええねんで。
もう切り離して考えたらええねんで。」
そう言ってくれる。
頭ではわかっているが、心がついていかないのだ。
自分の人生のほとんどを親の顔色を見て、「これでええやん。」と
言われるように生きようとしてきた癖はなかなか簡単に抜けない。
お父さん、(特に)お母さん、ごめんなさい。
もうあなた方の希望に沿うようには生きられません。