カチリ、とタイムマシンのダイヤルを「紀元前300万年」に合わせる。
男の名はビック。歴史の教科書に描かれた壮大なロマンの裏にある、人類の「地味すぎるリアルな苦労」を暴くのが生きがいのタイムトラベラーだ。
今回の目的地は、見渡す限りの草原が広がるアフリカのサバンナ。
お題は、人類の進化の第一歩を踏み出した偉大なる初期人類(猿人)、アウストラロピテクスである。
「人類史上初めて『直立二足歩行』を始め、前足が『手』になり、道具を使い始めた記念すべき瞬間……。さぞや、希望に満ちた瞳で地平線を見つめ、力強く大地を踏みしめているんだろうな」
ビック氏は、背丈の長い草むらの陰へと忍び込んだ。未来のステルス迷彩スーツを着ている上、今回は念のため「AI搭載・古代霊長類思考翻訳イヤホン」を装着している。
「あー……イテテテ。マジで腰が砕ける。なんだよこの『二足歩行』っていう新システム。完全にクソ仕様(バグ)だろ……」
草むらの奥から聞こえてきたのは、人類の夜明けを告げる雄叫びではなく、完全に重度の腰痛に悩まされる中年サラリーマンの愚痴だった。
ビック氏が覗き込むと、そこには全身毛むくじゃらでチンパンジーに近い顔立ちのアウストラロピテクスが、腰をトントンと叩きながら、ガニ股でフラフラと歩いていた。
彼こそが、人類の偉大な祖先。
イメージしていた希望に満ちたチャレンジャーとは程遠い、**完全なる「上層部(進化の過程)から突然『今日から四つん這い禁止な』と通達され、身体の構造が全く追いついていないのに無理やり立たされている現場の被害者」**の姿がそこにあった。
「あ、あの……アウストラロピテクスさん?」
ビック氏が思わず声をかけると、猿人はビクゥッ! と飛び上がり、慌てて四つん這いに戻って牙を剥いた。
「ギッ!? ウホッ!? (だ、誰だお前! 見ない顔だな、サーベルタイガーの回し者か!?)」
「あ、怪しい者じゃありません。未来から来たビックと言います。あの……二足歩行を始めて、人類の偉大な一歩を踏み出した勇敢な猿人とお聞きしたのですが……」
ビック氏が翻訳機越しに尋ねると、アウストラロピテクスはハァと深いため息をつき、再びよろよろと立ち上がって腰をさすった。
「未来の猿か……。聞いてくれよ! 俺だって好きで立ってるわけじゃないんだ! 気候変動で森の木が減っちまって、仕方なくこのサバンナに降りてきたんだが、草が長すぎて四つん這いだと前が全然見えねえんだよ! だから背伸びして歩いてるだけなんだが……この姿勢、マジで腰への負担がエグい!」
「なるほど、重力がダイレクトに腰椎(ようつい)に……」
「そうだ! おまけに、四つん這いならチーターからギリギリ逃げられるスピードが出たのに、二本足だと遅すぎて完全に『歩くエサ』状態だ! 内臓(お腹)の柔らかい部分も丸出しだし、防御力ゼロ! なんで俺たちはこんな最悪なアップデートを受け入れちまったんだ! 森に帰りたいよぉ!」
(※史実でも、人類が直立二足歩行を始めたことで「重力による強烈な腰痛」や「難産」という特有の苦しみを背負うことになったのは、進化の大きな代償(トレードオフ)としてよく知られている)
「しかも、前足が自由になって『手』になったって言うけどな……」猿人はその辺の石ころを拾い上げた。「これ持って何するんだよ! 石を持ったまま逃げたら余計遅いだろうが! 手が空いたって何の役にも立たねえ!」
人類最大の武器である「手」の価値に、まだ彼自身が全く気づいていなかったのである。
ビック氏はこの悲しき人類最初の腰痛患者に深く同情し、ポケットから未来のアイテムを取り出した。
「よし、これを使ってください。未来の『人間工学に基づいた、超高反発・骨盤サポートコルセット』と、疲労した筋肉を一瞬で癒やす『未来の超浸透性・温感マッサージゲル』です。それと……これ」
ビック氏が差し出したのは、未来の「軽量かつ頑丈なカーボン製・トレッキングポール(登山杖)」だ。
「ウホ……? なんだこれは? この黒い帯を腰に巻くと……おおっ!? な、なんだこの下半身の安定感は! 背骨が……自然と真っ直ぐに押し上げられる! まるで誰かに腰を支えられているようだ!」
猿人は驚喜し、さらに温感ゲルを腰に塗りたくった。
「……ッッッ!!! カァーーーッ! 温かい! 痛めつけられた腰の筋肉に、熱い癒やしが染み渡るウホ! これなら一日中立っていても全く苦じゃない!」
さらに、トレッキングポールを手に持たせてみる。
「ウホッ! この真っ直ぐな枝、めちゃくちゃ軽くて硬い! これを杖代わりにすれば歩くのが超ラクだし、もし肉食獣が来ても、この長い枝で突っついて威嚇できるじゃないか! 『空いた手で道具を持つ』って、こういうことだったのか!」
アウストラロピテクスの瞳が、ただの野生動物のそれから、道具を操る「人類」の輝きへと劇的に変わってギラリと光った。
「ビックとやら、ありがとうウホ! 俺は完全に二足歩行のポテンシャルを理解した! これなら両手でフルーツを大量に抱えながら、サバンナを余裕で歩き回れるぞ!」
未来の腰痛コルセットを巻き、トレッキングポールを振り回しながら、見事なS字カーブの美しい姿勢で草原をズンズンと歩き出した彼を最後に、ビック氏は現代へと帰還した。
後に残された歴史では、人類はここから急激に道具を発展させ、脳を大きくし、地球全土へと広がっていくことになる。
「なぜ人類は、腰痛やスピード低下という致命的なデメリットを抱えながらも、二足歩行をやめなかったのか?」
進化生物学におけるその最大の謎の裏には、未来から届けられた「究極の腰痛対策グッズ」による奇跡のサポートがあったのである。