ビック氏は、一分一秒を惜しんで働く「ビッグな実業家」だった。
彼にとって、社会生活における最大の無駄は「挨拶」だった。
「おはようございます。いいお天気ですね。昨日はどうも。……ふん、小っぽけな連中が口にする、中身のない言葉の羅列だ。これだけで一日に何分、いや何時間失っていると思っているんだ」
そんなある日、彼のオフィスに、奇妙な無表情の男が訪ねてきた。男は一枚の小さなICチップを差し出した。
「ビック様。これは『超電導・短縮挨拶装置』です。これを首筋に貼るだけで、あなたの挨拶はすべて『不思議な一音』に集約されます」
「一音だと? それで相手に通じるのかね」
「もちろんです。その音には、あなたの氏名、社会的地位、現在の資産価値、そして相手への敬意と、その後の商談の全容までがデジタル信号として凝縮されています。これぞ、真に『ビッグな男』にふさわしい効率的な挨拶です」
ビック氏はさっそく、そのチップを首筋に貼り付けた。
翌朝、取引先の社長に会ったビック氏は、いつもの面倒な挨拶の代わりに、チップの指示通りに短くこう発した。
「――ピポッ」
すると、どうだろう。相手の社長は一瞬だけ呆然としたが、次の瞬間には深く頷き、感激した様子で握手を求めてきた。
「ビックさん、素晴らしい! あなたの今の挨拶だけで、今回のプロジェクトへの情熱と、我が社への信頼、そして具体的な利益配分まで、すべて理解できました。言葉を尽くすより、よほど誠実だ!」
ビック氏は小躍りした。
それからの彼の生活は、驚くほど効率的になった。
朝、家族に「ピポッ」と言えば、愛と教育方針と小遣いの増額が伝わった。
株主総会で「ピポッ」と言えば、今後の経営戦略への賛同が得られた。
彼は言葉を失う代わりに、膨大な「時間」を手に入れたのだ。
やがて、その「不思議な挨拶」はビック氏の周囲から世界中へと広まっていった。
誰もが「ピポッ」「プピッ」「パポッ」と、短く乾いた音を交わすだけになった。街からは騒々しい会話が消え、図書館のように静まり返った。
だが、ビック氏は次第に、ある奇妙な不安に襲われるようになった。
手に入れた「時間」を使って、何をすればいいのかが分からないのだ。
挨拶を短縮し、会話を効率化した結果、彼には「話すべきこと」が何も残っていなかった。
「……マスター。何か、心に響くような言葉を聞かせてくれ」
ビック氏は、かつて馴染みだったバーへ行き、主人に頼んだ。
しかし、主人は悲しそうな顔をして、短くこう答えた。
「――ピ」
ビック氏は愕然とした。その一音には、「今の私には、あなたに語るための古い言葉はもう残っていません」という絶望的な事実が凝縮されていた。
ビック氏は叫ぼうとした。
「やめろ! 私はビッグな男なんだ! 私は、自分の声で、自分の言葉で……」
しかし、彼の口から飛び出したのは、自分でも驚くほど長く、複雑で、そして無機質な電子音の連なりだった。
「――ピポパポピピッパポペ……!」
それは、チップが自動的に生成した『混乱した人間の脳内データを、最も効率的に外部へ排出するためのエラー音』だった。
次の瞬間、ビック氏の目の前から、光り輝く街の景色が消え去った。
気がつくと、彼は巨大な計算機の中に、一つの「点」として存在していた。
宇宙の管理者たちが、モニターを眺めながら会話をしていた。
『……というわけで、この惑星の「言語通信」の最適化が完了しました。無駄な感情の揺らぎを排除した結果、全人口の全意識を、わずか数ギガバイトの容量に圧縮できました』
『ご苦労。これで、この小っぽけな文明をアーカイブに保存するスペースが節約できるな。……おや、この「ビック」というデータ、まだ何かノイズを発しているぞ?』
『ああ、それも今、消去(デリート)しておきます』
ビック氏が最後に発した言葉は、もはや音ですらなかった。
それは、無限に広がる沈黙の中に消えていく、一瞬の「瞬き」に過ぎなかったのである。