燃え尽きた草野球
年の瀬も押し迫った12月下旬、カミさんから着信があった。こちとら、冬期講習で目が回るような忙しさの中、あえて連絡してくるからにはよほど緊急事態にちがいない。
子どもの身に何かあったのでは、と一抹の不安がよぎった。案の定、受話口の向こうで興奮しながらまくしたてている。だが声音は妙に弾んでいた。
「くっ、くろだがかえってくる〜!!」
それは最近、カープ女子になったカミさんの歓喜の嬌声だったのだから世話ぁない。確かに黒田博樹選手のカープ復帰は朗報だ。しかし、部活でソフトボールをしていたカミさんとはいえ、野球にまつわることで子どものように歓喜踊躍(かんぎゆやく)する人間を久しぶりに見た。この、筆者自身すっかり忘れてしまっていた感覚は何であろう。
任天堂の家庭用ゲーム機・ファミコン(ファミリーコンピュータ)が発売されたのは1983年7月15日。ちょうど筆者が小学校6年生の頃であった。当時はエポック社のカセットビジョン(1981発売)が家庭用ゲーム機の定番であったから、ファミコンが市場を席巻したのは中学1年くらいの頃だっただろうか。
この時期を境に子どもたちのインドア化が進み、野外からこつぜんと子供の姿が消えていく。我々(カミさんとは同い年)は最期の草野球世代といって過言ではない。人気ソフト「燃えろ!!プロ野球」は、確かに一時期のプロ野球人気の下支えとなったが、裾野にある草野球は燃え尽きた。皮肉なことである。
第二次ベビーブームの頂点にあったこの世代においては、とにかく町中に子どもが掃いて捨てるほどあふれかえっていた。気心の知れた連中は三々五々近所の空き地に集合。ゴムボールとカラーバットを持ち寄って、さっそく草野球のプレーボールだ。
草野球は、野球のうまいやつと一緒のチームになるかどうかでほぼ勝敗が決まる。それゆえ、チーム編成コンベンションである「ウラウラオモテ(地方によってはグッパ)」やトリコは、いやが上にも白熱する。じゃんけんで勝ったほうに選手指名権が与えられるトリコではドラフト会議のごとく緊迫したドラマが展開するが、ウェーバー方式などの公平性はない。じゃんけんの強さだけがすべてである。指名順位が下位になるほどジャイアンズにおけるのび太よろしく、選手のゆずりあい(なすりあい?)がはじまる。
一人残された選手の眼前で「いる・いらん!」と叫びながら双方のリーダーが渾身のジャンケン。固唾を飲んで周囲が見守る中、勝った側が厳かに「いらん」と宣告し、選手を押し付ける。お荷物を抱えた側のチームには、暗たんとした空気がただよう。まったく子どもの世界には人権もへったくれもない(大人の世界の戦力外通告よりマシかもしれないが)。
野球用品が子どもたちの「お宝」
クリスマスが近かったので、昔のクリスマスプレゼントのことを思いだした。保育園の頃、父親に買ってもらったグローブがどうにも小さくなり、大人用のグローブがほしくなった。当時はミズノの青カップ・赤カップ、SSKディンプルパワーグラブなど、野球用品が普通にテレビCMでオンエアされていた(これを生徒たちは信じてくれない)。
小学3年生のクリスマス、筆者はサンタクロースにグローブを無心した。
こればかりは自分の掌にあうものでないといけないから、親と一緒に選びなさいという旨のサンタからの手紙が枕元に置いてあった。
早速、近くのホームセンターで買ってもらったのは、どこのメーカーともわからぬサンプル陳列の代物だったが、妙にわが手になじみ、旧知の相棒のような感覚を覚えた。このグローブはつい最近まで実家の物置に鎮座していた。
野球のクラブチームに所属しているわけでもない「一柔道少年」が、クリスマスという年間最大級の玩具獲得イベントにおいて野球用品を欲しがるというところに、野球に対する「時代熱」というものがあった。くしくも長男は同じ小学3年生。1年生の次男の分もあわせ二抱えのガンプラの箱をクリスマス包装してもらいながら、隔世の感を禁じ得なかった。
少年期最後のボルテージ
少年の日の、そして社会全体の野球熱が冷めていきはじめたのは一体いつ頃のことだったろうか。
鮮烈に刻まれている光景は、大学会館(金沢大学)での一幕である。1990年11月24日、講義が終わった筆者は仲間と一緒に大学会館のテレビの前に陣取った。この日はプロ野球新人選手選択会議、いわゆるドラフト会議の日だった。
この日の目玉は、大学野球ナンバーワン投手の呼び声高く、複数球団指名が必至の亜細亜大学・小池秀郎。何球団から指名を獲得するかということが話題の中心だ。
ただ、北陸・金沢は富山出身の学生が多い。「プロ野球の父」と呼ばれ、読売巨人軍の生みの親でもある正力松太郎(1885~1969)の出身地・富山は巨人ファンが多く、巨人の一位指名が誰なのかにも注目が集まる。
前年ドラフトでは高校ナンバーワンスラッガーの上宮高校・元木大介の熱烈なラブコールを反故にして東京六大学三冠王の慶応大学・大森剛を一位指名。元木は福岡ダイエーホークスの指名(野茂の外れ一位)を蹴って、ハワイで野球浪人をしながら指名を待つ。「常に紳士たれ」の巨人が恋焦がれる元木にまたしてもひじ鉄をくらわすのか、へたな昼メロより断然面白い。
次第に会館は男子学生で埋め尽くされていく。この年頃の男子は自分が中心人物になりきって天下国家を論じあうのが大好きだ。各々がひいきのチームのオーナー気分に浸りながら持論を展開していく。
「藤田(当時の巨人軍監督)は慶応出身だから、大森を指名したのは仕方ないよ」
「他球団はどこも元木を一位指名しないだろうから、巨人も小池指名でいけよ!」
筋書のないドラマに、ボルテージがいやが上にも高まる。そして、各球団の指名が進むにつれて、男子学生の叫ぶ「オーッ」という野太い声が会館に響き渡る。
小池秀郎はこの年、前年の野茂英雄に続き、史上最多の8球団から指名を獲得した。そして、いよいよ抽選…。
交渉権を獲得したのは当時、万年Bクラスと低迷するロッテオリオンズ。クジを引き当てたのは監督の金田正一だった。その「してやったり」のドヤ顔とはあまりにも対照的に、世の中の苦虫をすべて嚙み(ロッテだけにガムならばよかったものを)潰したような小池の表情…。これほど鮮やかなひきこもごものコントラストはそうお目にかかれるものではあるまい。
小池は意中の球団として「巨人かヤクルト、もしくは西武」と明言しており、金田の独断専行ともいえる強行指名だった。
ロッテ大丈夫か???
この後、入団交渉へと大バクチは続く。ヤジ馬たちにとってはこれ以上ない至福の歓び…。
筆者はあの日のボルテージを忘れることができない。これほどワクワクする映画・ドラマを演出できる脚本家がこの世に存在するだろうか。
スポーツにまつわる「筋書きのないドラマ」の前には、台本ありきのドラマはすべて茶番でしかない。
しかし、その情熱が、筆者からも、この日黒山の人だかりだった観衆からも急速にうしなわれていった。
1990年ドラフト…、1971年生まれの筆者としてはまさしく「少年期最後の」情熱だった。
