ゴジラとの数奇な縁
1991年のドラフト会議は、駒澤大学・若田部健一を4球団(ダイエー・巨人・広島・西武)が指名。しかし、野茂英雄・小池秀郎への史上最多8球団指名という2年連続のセンセーションの後では「無風」状態というに等しかった。
そして翌92年のドラフト会議。この年は指名選手がすべて入団拒否することなく次年度の支配下登録に入った史上初めての事例となり、表向きは平穏な、そして国民的エンターテイメントとしてはおそらく最後になるであろうドラフト会議となった。
92年ドラフトの目玉は星稜高校の松井秀喜。筆者が学生時代を過ごした石川県では、ドラフト前からちょっとした盛り上がりをみせていた。
当時、地元出身のプロ野球選手といえば中日のエース・小松辰雄(星稜高校)。85年には沢村賞も獲得しているが、往年の快速球に陰りがみえはじめ勝ち星も全盛期ほどではない(94年引退)。
石川県民は新しい地元スターの誕生を切望していた。後に、長嶋茂雄と共に国民栄誉賞を受賞することになるこの少年は、当時から人口に膾炙(かいしゃ)する話題も怪物級。あまりに打球が飛び過ぎて周辺施設を破壊するため星稜高校グラウンドにはりめぐらされたいわゆる「松井ネット」などは各スポーツ紙が騒ぎ出す以前から、複数の地元学生から耳にしていた。
数奇なことにこの選手のターニングポイントとなる場面を目の当たりにするのはいつも病室のテレビモニターを通してという、個人的主観ながら筆者にとっても、ちょっとした「お騒がせ」選手だった。
第74回全国高等学校野球選手権大会2回戦、明徳義塾高校(高知)対星稜高校の試合が行われた8月16日、筆者は地元(安芸郡府中町)で一番大きなマツダ病院に入院した母を見舞っていた。
薄氷を踏むような長年の鉄工所事務でストレスがつのり肝臓に障害が出たのだ。入院という形でもなければ休養すらできないような火の車の状況だった。
病室とはいえ、母子でゆっくりするのは何年ぶりだったろうか。県代表・広島工業の対戦相手がどこになるのか気になりテレビのスイッチを入れた。ブラウン管の向こうには松井秀喜が立っていた。5打席連続敬遠…、バットを振らずバッターボックスにたたずむことで、この少年は甲子園のレジェンドとなった。
父との別れ
取引先への支払いなど、事務の一切を取り仕切っていた母が入院したことで鉄工所のあらゆる歯車が狂いはじめた。外で飲む元気もなくしたように、夕方早々帰宅してくる父が心なしか小さくみえるようになった。
胸騒ぎが現実となるのにそう時間はかからなかった。母と入れ替わるように父が入院。勤労感謝の日をはさんだ連休を利用して金沢から帰郷したその日、母とともに医務室によばれ、父のこの世に残された日数がわずかであることを告げられた。
野球好きの父は、病室でドラフト会議の中継を見ていた。見入るだけの精根も尽きたようにただ放送が流れている様子だった。
この日、松井秀喜は4球団(中日・ダイエー・巨人・阪神)の指名を受け、13年ぶりに采配をふるうことになった長嶋茂雄監督自らが抽選にのぞみ、交渉権を獲得。
アンチ巨人の父さえ魅了した「ミスタープロ野球」の満面の笑みに無数のフラッシュがたかれる。
プロ野球史に遺る劇的風景と、それに反応するだけの気力を失った父、余命を知らされながらかける言葉のない妻と息子…。今思えば、まったく不思議な光景だった。
1936年2月27日、つまり2・26事件の翌日、帝都・東京が戒厳令で揺れる最中に産声をあげた父(瀬戸内海の小島はであるが)は92年12月8日、太平洋戦争開戦記念日に鬼籍に入った。激動の昭和史を地で行く人生だった。享年56歳。
それからしばらくは鉄工所の整理などでゴタゴタが続き、とてもプロ野球を堪能するゆとりがなかった。その年(93年)カープは最下位に終わる。
国民的エンターテイメントの終焉
気がつけば93年のストーブリーグ。この年のドラフト会議からいわゆる逆指名制度(自由獲得枠制度、さらには希望入団枠制度)が導入されることとなった。
大学と社会人野球の選手を対象に、1球団につき2名までが文字通り逆指名で入団できるこの制度により、ドラフト会議は半ば通過儀礼と化す。
そこには「クジビキ」が織り成す球団・選手・周囲の人々、そしてファンの悲喜こもごもの人間ドラマは皆無といってよい。冒頭にて「最後のエンターテイメント」と表現したのはそのゆえんだ。
そもそもこの逆指名制度、一部の球団が、球団職員などの形で意中の選手を囲い込み、ドラフト外の形で入団させるといった「ドラフト制度の盲点」が浮き彫りになりはじめたことに端を発する。
禁断の愛ほどよく燃えるというが、球団と選手が相思相愛ならば、一定の枠を設けて恋を成就させてあげようという融和策にほかならない。球団と選手の思惑が先行し、ファンの心情は蚊帳の外だったといってよい。
ただ、交渉権を獲得した球団に、何かとゴネて契約金をふっかける事態は解消された。契約金の最高標準額(当初の申し合わせでは1億円プラス出来高5千万円)を定めるなど、健全な側面はあった。
この制度、一部の人気球団に有利という声もあったが、引退後も球団職員として手厚く面倒をみるなどのアフターケアを交渉カードに、広島東洋カープは逸材の獲得に比較的成功した。
94年入団の山内泰幸や、96年入団の澤崎俊和(2位は黒田博樹)は新人王のタイトルを獲得している。逆指名してもらうため、選手に対する各球団の誠意の示し方に幅と厚みが出てきたともいえる。
一方で、金にあかせて選手の心を買おうという輩は絶えないものだ。明治大学の一場靖弘に、栄養費などの名目で複数の球団から現金が渡っていた。このいわゆる一場事件(2004年)が、この制度の根幹をゆるがし始める。
そして、2007年には西武ライオンズの裏金問題(所属選手に還元してやれよ!!)発覚に端を発し、この制度は終焉をむかえた。
ドラフト会議は以前の姿に戻った。発展的解消ではない。あまりにも汚いものをみせつけられた挙句の「元の木阿弥」では、心証としてドラフト会議に「かつての輝き」を期待することは難しい。
父を含む大多数の国民が、夢と希望と「明日への活力」をプロ野球からもらってきた。その「夢を売る」べき球団が、球場に足を運ぶ庶民の年収にも相当しようかという裏金でアマチュア選手の心を買う。またそのようなカネを受け取りながらしゃあしゃあとプレーしている選手がいることを知りながら試合に熱狂するほど私(だけなのか?)もお人好しではない。
筆者のプロ野球に対する情熱は、あの日、父が冥土に旅立つときに一緒に持っていってしまったのかもしれない。

