この日(5月5日)、3番打者小園は6打数ノーヒット、いわゆる6タコと全く精彩を欠いていた。前回のブログを読んでいただけたらわかるように、若手の活躍によりなんとかドローに漕ぎつけた試合ではあったが、11回表には2死満塁で小園に打席が回ってくるなど(結果一ゴロ)、彼がクリーンナップらしい働きを見せていれば勝てていた試合かもしれないし、鯉の季節にしてこの順位はなかったであろう。
しかし首脳陣はなにを考えているのか、このブログを書いている現在もあいもかわらず小園は3番に鎮座。あれから復調の兆しがあるのかと思いきや、2割前後のローアベレージ、おまけに本塁打0。
長年野球観戦をしてきたが、他球団をみわたしてもこうした選手を無為無策にクリーンナップに留め置く球団は見たことがない。打てない選手を3番に座らせておくことに純戦略的観点からは何のメリットも見いだせない。標準的な野球脳(プロ野球一軍スタッフ程度の)があるなら当然、打順を動かすはずである。ここまで執拗に小園3番にこだわるのは、上位下達のナニかが働いているのではないかと勘繰ってしまう。筆者も広島市民球場の薫陶を受けた最後の世代であり、とてもお行儀のよい表現は出来ないので言わせてもらうが、
「新井ィー!!どこぞの誰かにクンロクでも入れられとるんかァ!?」
とヤジりたくもなる。
どうもこの球団、打順一つ(左右病含む)とってもしつこいほどに頑迷で融通のきかない部分がある。ただ、この球団が草創期からずっとそうだったわけではない。どこからこの球団は迷走しはじめたのだろうか。
現球団オーナーがオーナー代行として実質的に実権を掌握したのが1985年。
カープ最後の日本一が前年の1984年(監督・古葉竹識 対阪急ブレーブス)だったことから、現オーナーになって一度も日本一になっていないことになる(リーグ優勝は5回)。偶然か?筆者はそこに何か根深いものがあるような気がしてならないのだがうがちすぎであろうか。球団の経営方針、チーム作りのコンセプト、体質云々…。
勘ぐりはじめるとキリがないため、ここでは純粋に「勝つため」の打順について考察していきたい。
今回はケーススタディとして、「耐えて勝つ」古葉監督時代(1975~1985)の衣笠祥雄(現役期間1965~87)の打順を事例にあげてみた。
彼は1974年までに通算165本塁打(この時点で山本浩二は116本)とパンチ力では球団随一であった。打者としての彼の評価がほぼ固まった状況での、古葉監督の彼の起用方法を観察すれば、勝つための打順がどういうものか、より理解しやすいと考えた。前年の実績と、補強による新戦力との優劣により監督のチーム構想が如実に反映する開幕スタメンの打順で考察していきたい。
1975年(優勝)、開幕スタメン5番。前年までは数度4番(71・72・74年)を勤めたが、この年より山本浩二が引退(86年)するまで不動の4番となる。悲願の初優勝となったこの年はジョー・ルーツ監督(4月27日まで)で「勝つための野球」に変貌をとげた黄金期元年。「切り込み隊長」の大下剛史を獲得し一番打者に起用。強打者ホプキンスを3番に迎え、この年に首位打者・MVPを獲得する山本浩二と、盤石のクリーンナップトリオを形成する。本塁打21本。
1976年(3位)、開幕スタメン1番。この年までの総盗塁数が114。「足」を期待してのこの打順になったのか、彼はその期待に応えるように見事、盗塁王を獲得(31)。打率も2割9分9厘と、これまでのキャリアハイとなるアベレージを残している。本塁打26本と、脅威のトップバッターである。クリーンナップは3番ホプキンス・4番山本浩二・5番シェーンとなっている。
1977年(5位)、開幕スタメン1番。盗塁数は28と、この年もまずまずの数字を残している。本塁打25本で打率2割6分5厘。パンチ力と走塁のバランスを考えればトップバッターとして及第点か。クリーンナップは3番ライトル・4番山本浩二・5番水谷実雄となっている。
1978年(3位)、開幕スタメン7番。この年は若手の成長株として高橋慶彦が台頭。打順を下げたというよりも、当時のプロ野球記録となるチーム本塁打205本(山本浩二44本、ギャレット40本、ライトル33本、衣笠30本etc)の超重量打線の殿(しんがり)という役回り。そうした立ち位置をわきまえてかこの年の盗塁数は9に激減している。クリーンナップは3番ライトル・4番山本浩二・5番水谷実雄となっている。
1979年(優勝)、開幕スタメン2番。この年は彼の野球人生において一番苦しかったシーズンだったかもしれない。最近でこそ「2番バッター最強説」が巷間で取り沙汰されるようになってきたが、当時は送りバントや進塁打など、小技の利くバイプレーヤー的なイメージがあり、常にフルスウィングという、彼のプレースタイルと、果たしてマッチしたかどうか。こうしたことが要因なのか、彼は春先から深刻なスランプに苦しみ、5月27日時点で打率2割を切り、スタメンから外れる。これは1974年4月17日以来続いていた連続フルイニング出場の記録が途切れることを意味し(元阪神・三宅秀史の持つ日本記録700まで後22)、江夏豊の著書によれば、手あたり次第に周囲の物を投げ散らかすなど大荒れだったという。
さらに災難は続く。8月1日の対巨人戦では投手・西本聖から、背中に死球を受け、肩甲骨を骨折(全治2週間)。連続試合出場記録が途絶える最大の危機だったが、翌2日に代打で出場し、江川の投球に対し、激痛をこらえてのフルスウィング三球三振は球史にのこる逸話となっている。そして驚くべきは3日の試合からは2番三塁手としてフル出場している。鉄人の面目躍如である。
結局、この年は本塁打20本、打率2割7分8厘と、何とか面目を保つ数字を残し、リーグ優勝に貢献。さらには江夏の「21球」で語り草となっている近鉄バファローズとの死闘を制してのカープ初の日本一を経験している。クリーンナップは3番ライトル・4番山本浩二・5番三村敏之となっている。
1980年(優勝)、開幕スタメン5番。本領発揮できる本来の打順にもどって水を得た魚になったのか、本塁打31本、打率2割9分4厘で連続日本一に貢献。3番ライトル、4番浩二で構成するクリーンアップは本当に脅威だった。
1981年(2位)、開幕スタメン6番。水谷実雄に5番を譲ってのこの打順だが、本塁打30本、打率2割7分4厘とまずまずの数字をのこしている。クリーンナップは3番ライトル・4番山本浩二・5番水谷実雄となっている。
1982年(4位)、開幕スタメン2番。79年に苦渋を飲んだ打順だが、本塁打29本、打率2割8分とまずまずの数字をのこしている。ただチームは1977年以来、5年ぶりのBクラスに転落し、チーム若返りが急務となる。クリーンナップは3番ライトル・4番山本浩二・5番水谷実雄となっている。
1983年(2位)、開幕スタメン5番。82年オフ、チーム若返りのため、水谷実雄を、阪急の加藤秀司とトレード、不動の3番・ライトルを放出と、チームに激震が走る。クリーンナップは3番長内孝・4番山本浩二・5番衣笠祥雄となっている。加藤秀司の名前は見当たらない。
1984年(優勝)、開幕スタメン5番。この年は本塁打31本、打率3割2分9厘と、現役生活で唯一の3割達成。そして102打点で打点王のタイトルを獲得するなどカープの4年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献。セリーグMVPを獲得する。クリーンナップは3番小早川毅彦・4番山本浩二・5番衣笠祥雄。
1985年(2位)、開幕スタメン6番。前年のセリーグMVPであるにもかかわらずクリーンナップは3番長内孝・4番山本浩二・5番長嶋清幸となっている。長嶋は84年の日本シリーズMVPであり、古葉監督の若返り構想のためのオーダーであろう。古葉はこの年で監督を勇退。次代のチームへの道筋をつけての見事な引き際となった。この年は本塁打28本、打率2割9分2厘。
こうしてみてくると、1シーズン30本塁打前後のパワーヒッターであったとしても、その時々のチーム事情にあわせ臨機応変に打順を変えていく。日本一を何度も達成する監督には臨機応変、変幻自在の柔軟性が備わっている。古葉政権で打順をいじらなかったのは山本浩二くらいだが、それは彼が大相撲でいう横綱だからである。横綱はどれだけ敗けようが番付は変わらないのだ。だからその重責もまたすさまじい。
不動の3番小園(2026年5月15日現在)。彼は横綱クラスなのか?せいぜい三役程度の力士は成績が悪ければ番付を下げるだけだ。実力がなければ十両(2軍?)も止む無しの厳しい世界。家族主義のぬるま湯体質では、独り相撲で早々と土俵を割るだけだ。
待ったなし!!!
最後はなんか相撲の話になってしまった。

