怪力サムソン - 有終の美を飾る? | 日本一人口の多い村、読谷村を天国にしちゃうぞ!

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こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。(へブル人への手紙12:1)

 

聖書は、人生を長距離レースに例える。忍耐をもって走り続けるのが人生だ。

 

多くの証人たちが、雲のようにぼくらを取り巻いている、と聖書は言う。へブル人への手紙11章で述べられている信仰の勇者、バイブル・ヒーローたちのことだろう。

 

アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、モーセ、ラハブ、、、 この後も、旧約聖書の有名人の名が並ぶのだが、、、

 

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サムソンは旧約聖書の士師記に登場する人物だ。

 

「サムソンとデリラ」というタイトルで映画化されているので、昔の映画好きの皆さんなら知ってる名前だろうね。(因みにストーリーは聖書のそれとは随分違ってるぞ・・・)

 

どうして信仰の勇者の中にこの人物が含まれているのか、ぼくには謎だった。

 

ぼくにとっての信仰の勇者とは、自分もその足跡にならいたい、子どもたちにもならってもらいたい、と思える人たちだ。

 

ところが、サムソンの生き様はとても、とても、そんなんではなかった。

 

サムソンは生まれる前から神に選ばれた器だった。神様はサムソンに特別な任務を与えた。それは、敵国ペリシテ人の圧政からイスラエルを解放することだった。(士師記13章

 

それ故、サムソンの上には神の霊が留まり、特別な力を持つ者とされた。たった一人でライオンをやっつけたり、たった一人で千人ものペリシテ人をなぎ倒したりできる怪力の持ち主だ。

 

しかし、サムソンには問題があった。聖人とはほど遠く、はちゃめちゃな人生を送る。両親にとっては一家の問題児、悩みの種だった。そして、一番の弱点が女性だったんだ。

 

まずは、ティムナの女性、敵国ペリシテ人の娘に恋して、一騒動起こしてしまう。(士師記14章15章

 

そして、オペラと映画にもなったデリラとの一件。(士師記16章

 

デリラに恋するサムソン。デリラに涙ながらに何度もせがまれ、ペリシテ人指導者たちと通じていることに気付いていたにもかかわらず、自分の怪力の秘密を明かしてしまう。

 

デリラは泣き出しそうな声で言いました。「よくも愛してるなんて言えるわね。ちっとも私を信用してくれないくせに。もう三度もだまされたわ。それでもまだ、力の秘密を教えてはくれないのね。」
寝ても覚めても彼女がせがみ続けるので、サムソンは死ぬほどつらくなって、ついに秘密を打ち明けました。「実は、私の頭にはかみそりが一度も当てられたことがないんだ。私は生まれる前から神にささげられたナジル人だから。もし髪がそり落とされたら、私の力もおしまいさ。ほかの人と同じになるんだ。」

(士師記16:15-17)

 

髪の毛を剃る、それは、ナジル人としての契約を破ること、神の御前に罪を犯すことなんだ。

 

デリラの膝枕ですやすや眠ってる間に、こうやってアップサムソンの髪の毛は剃り落とされた。

 

その結果、神様はサムソンの許を去ってしまった。怪力も失ってしまった。

 

問題はあなたがたの罪です。罪があなたがたと神との断絶のもとなのです。罪のために、神は顔をそむけ、いっこうに聞こうとされません。(イザヤ書59:2)

 

そうして、今までサムソンにこてんぱんにやられて来たペリシテ人のリベンジに遭う。

 

サムソンは両目をえぐり取られ、ペリシテ人の都市ガザに連れて行かれ、青銅の足かせをはめられ、地下の獄屋で臼を引く奴隷とされてしまったんだ。

 

ああ、天と地を創られた神、ひとり子さえ惜しまずに人類に与え給うた父なる神は、本当に憐み深いんだよな。

 

サムソンの人生はこれで終わりではなかった。

 

神様はサムソンを見捨てなかったんだ。

 

地下の監獄で、サムソンは自分の人生を振り返っていたことだろう。

 

冒頭の聖句、へブル人への手紙11章1節の後半部分にこう書いてある。

 

私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

 

「いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨て」るとは、罪を悔い改めて、神様に立ち返ることに他ならない。

 

サムソンはそれをした。

 

サムソンに転機が訪れた。

 

ペリシテ人たちがダゴンの神殿でどんちゃん騒ぎをしていたときのこと、、、

 

獄中のサムソンを満足げに眺めながら、「われわれの神は、宿敵サムソンを引き渡してくださった。同胞を大ぜい殺した元凶が、今はあのざまだ」と言いました。 いいかげん、みなの酔いが回ったころでした。「サムソンを連れ出せ! 見せ物にして楽しもうじゃないか」という声が上がりました。サムソンは牢から引き出され、神殿の中央の大屋根を支える二本の柱の間に立たされました。彼は手を引いている若者に頼みました。「両手を二本の柱にすがらせてくれ。寄りかかって休みたいんだ。」

(士師記16:24-26)

 

サムソンは、生まれて初めて心からの叫びをもって、神様に祈り求めたんだ。

サムソンは主に祈りました。「ああ神、主よ。どうかもう一度、私のことを思い出してください。今一度、力をお与えください。ペリシテ人にえぐられた二つの目の復讐をさせてください。」(士師記16:28)

 

この祈りに答えて、神様はサムソンの許に戻って来てくれた。

「・・・あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。・・・」(マラキ書3:7)

 

サムソンに再び怪力が与えられた。神殿を支える二本の柱を力一杯引いた。神殿は崩れ落ちた。サムソンはペリシテ人を木っ端微塵に打ち破り、自分の命と引き換えにイスラエルを救ったんだ。。

 

サムソンは、息を引き取る瞬間に、ついに、イスラエルの救世主になるという神様が与えた使命を果たした。

 

いつも両親を悲しませ、神様の栄光を傷つけるような、はちゃめちゃの人生を送ったサムソン。

 

土壇場で神様の憐れみを受け、天与の人生の目的を成し遂げたんだ。

 

だから、サムソンも、信仰の勇者・英雄(ヒーロー)として、聖書に名を残すことができたんだろうな。

 

終わり良ければすべて良し、と表現する人もいるだろう。

 

サムソンは有終の美を飾った。

 

人生は息を引き取る瞬間まで諦めてはならない。

 

土壇場でも逆転勝利できる。

 

長距離レースをどのように走り続けるか。

 

そして、どのようにゴールインするか。

 

鍵は、サムソンのように、悔い改めて、唯一まことの神に立ち帰ることだ。

 

父なる神は、ぼくらがご自分に立ち帰るのを待っている。

 

命ある限り遅すぎることはない。

 

でも、サムソンみたいに、"土壇場"まで待つ必要はないんだ。

 

「今」がそのときだ、、、

 

とぼくは思う。ウインク

 

ダウンダウンダウン

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(へブル人への手紙12:2)