ナチ時代の政治に翻弄された指揮者たち~カラヤンとフルトヴェングラー | Cecilia's Diary

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「聖セシリア」は、音楽の守護聖人。これにならって、音楽をはじめとする芸術や
伝統文化などを楽しみつつ、毎日を生き生きと過ごしている様子をつづります。
ライフワークとしてコーチングも勉強中。

今まで指揮者に関する本というのは、読んだことがなかったのですが、
来月「テイキングサイド」というお芝居を観に行くので
その予習(!)として読んでみたのがこの「カラヤンとフルトヴェングラー」。

カラヤンとフルトヴェングラー [ 中川右介 ]

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「テイキングサイド」は、ナチス・ドイツのもとで音楽活動を行っていたために
第二次世界大戦後に非ナチ化裁判(ナチとは関係ないと身の潔白を証明するための裁判)
にかけられてしまう指揮者フルトヴェングラーを描いたお芝居。(らしい)

フルトヴェングラーという名前は知っていたし、
巨匠と言われるほどの指揮者だということも知っていましたが、
それ以上のことはあまり知りませんでした。
でも、このフルトヴェングラーも帝王カラヤンと同じく(というかその前の)
ベルリン・フィルの首席指揮者だったんですね。
(それ、知らんかった…)

ちょうどフルトヴェングラーがベルリンで活躍している時代は、
ヒトラー率いるナチスがドイツを支配しはじめた時代。
たまたまヒトラーが音楽好きだったことから、
フルトヴェングラーは彼のお気に入りになってしまったそう。
(でも、もしヒトラーが音楽好きじゃなかったらって考えると
そっちのほうが恐ろしいかも)

時の権力者に好まれてしまうと、必然的にその権力者の気に入るように
動かなければならない。

フルトヴェングラーとしてはナチス・ドイツに力づくで抵抗するつもりは
ないにしても、積極的に協力するつもりはない。
でも、ナチス・ドイツが巧みにフルトヴェングラーを
囲い込むようにしていくので、
フルトヴェングラーにはそういうつもりはなくても
まわりからみるとナチス・ドイツにおもねっているように思われてしまった。
そのため、戦後は「非ナチ化裁判」にかけられ、
確かに非ナチであるという証明がされるまでは
しばらく演奏活動もできないという事態に陥ったそう。

一方で、帝王カラヤンもフルトヴェングラーとは違う形で
ナチス・ドイツとかかわることになり、
こちらも戦後は「非ナチ化裁判」にかけられることになります。

フルトヴェングラーもカラヤンも、それぞれナチス・ドイツ時代の活動の中で
かろうじてナチス・ドイツ側ではない、ということが証明され
(たとえば、カラヤンの2度目の奥さんはユダヤ人の血が1/4混じっているとか、
そんなささいなこともナチス・ドイツにはかかわっていないという証明に利用した)
戦後音楽活動を再開します。

戦争や政治的な力によって、演奏家の運命が左右されてしまうのは
致し方ないこととはいえ、音楽には国境はないはずなのに、
こんな扱いを受けなければならないというのはほんとに悲しいことだと思います。

また戦争中にアメリカなどに亡命した人は、
戦後は裏切り者としてたたかれるし、
亡命せずにドイツにとどまったフルトヴェングラーやカラヤンは
(フルトヴェングラーは戦争が終わる直前に身の危険を感じて
スイスへ亡命しますが)
戦後、アメリカからナチス・ドイツに加担した音楽家という目で見られて
演奏活動を阻まれたりして、なかなか思うようにいかずに大変だったようです。

またこの本で書かれているもうひとつの流れは
カラヤンvs.フルトヴェングラーの仁義なき(?)たたかい。

すでにフルトヴェングラーが指揮者として名声を得ていたとき、
カラヤンは失業中の身でベルリンにやってきます。
最初はカラヤンのことなんか眼中になかったフルトヴェングラーですが、
そのうちメキメキと頭角をあらわすカラヤンにライバル意識をもつようになります。

それは、音楽性が優れているとかいった問題以上に、
ベルリン・フィルやウィーン・フィルの首席指揮者の座を奪いあう、
という意味でのライバル意識。

フルトヴェングラーはフルトヴェングラーでオーケストラを牛耳る
支配者となりたがったし、
カラヤンも帝王カラヤンと呼ばれたくらいですから、
若いときから野心に燃え、ベルリン・フィルを最終目的として
すべてのものを手に入れるために動きます。
でも、カラヤンはすべてを手にいれたいとあせるばかりに
手に入れたと思ったらすべてをなくす、という苦い経験を
結構しているみたいです。
あの帝王カラヤンも、意外と苦労して頂点までのぼりつめた人なんだなあ、と
思ったらちょっと親近感がわきました。

この2人の火花を散らすような戦いぶりが書かれているのも興味深いです。

相手を蹴落とすためにいろいろ策を練ったようなことが書いてありますが、
こういうことは今の時代でも指揮者同士の間であったりするんでしょうかねー。

結果的にフルトヴェングラーは耳が聴こえなくなり、
それをきっかけとして指揮者活動から遠のくようにして亡くなります。

彼のあとがまをチェリビダッケと争って勝ち取ったカラヤンですが、
フルトヴェングラーの死後もフルトヴェングラーの影と戦うことになります。

カラヤンもフルトヴェングラーが偉大な指揮者だということは認めていて
だからこそその偉大なフルトヴェングラーを越えてこそ自分が
偉大な指揮者になれると考え、フルトヴェングラーの時代にはなかった
映像やCD録音などに力を入れて帝王たろうとしますが、
技術の進歩により、残されたフルトヴェングラーの音源は雑音を加工して
CD化されてしまうと、亡くなったのちも
「偉大なフルトヴェングラー」の記録は残る。

帝王として君臨しながらも、
そんなフルトヴェングラーの常に脅かされていたんなんて、
内心どんな思いだったんでしょうね。

フルトヴェングラーもカラヤンも、指揮者であると同時に
自分の音楽を表現するためにすべてのものを支配したいという願望から
逃れられなかった。

彼らの生み出す音楽はすばらしいものだったのかもしれないけれど、
この本を読むと人間としては、果たして彼らは尊敬すべき人だったんだろうか…
という気持ちになりました。
まあ、時代背景もあったりするんでしょうが。しょぼん

折しも、元ベルリン・フィルの首席指揮者であるサイモン・ラトルが
今の契約期間である2018年夏を迎えたら
ベルリン・フィルの首席指揮者を降りるというニュースをききました。

2018年には64歳になるサイモン・ラトル。
いつまでも自分がベルリン・フィル首席指揮者という地位に
いてはいけない。
それより、この地位はこれからの人に譲るべき。

確かそんなような内容だったと思うのですが、
自分が表現したい音楽のために、地位や支配することにこだわった
フルろヴェンぐらー&カラヤンと、
己を知り、後進にゆずるという選択をするラトル。

もしフルトヴェングラーやカラヤンがラトルのような
考え方の指揮者だったら、その人生はまた
違ったものになっていたのかもしれないな、と思いました。

指揮者の人生を探るのも、なかなかおもしろいものです。