トリュフォーの愛、映画と女性と | 映画の楽しさ2300通り

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ある映画好きからすべての映画好きへの恋文
Love Letters to all the Movie Lovers From a Movie Lover

いつの頃からか、フランソワ・トリュフォーの作品に優しい視線を感じるようになりました。演出のテクニックとして、カメラアングルやコマ割に「優しさ」を盛り込むことができるとは考えられないので、これは監督の、対象に対する愛情の発露だと思います。

トリュフォー作品のテーマや映画の結末が優しいわけではけしてありません。「アデルの恋の物語」にしろ「隣の女」(http://purple.ap.teacup.com/gotomovie/15.html)にしろ、むしろ残酷で悲劇的ですし、比較的ハッピーな「日曜日が待ち遠しい!」だって殺人犯の動機に哀しさがありました。そういう悲劇や哀しみをもたらすものを怒りによって糾弾することなく、人間の弱さ、というかそれゆえの面白さとして温かく包みこんでしまうように見えます。

その感じは特に対象が子供と女性のときに顕著です。前者には汚されていない魂の庇護者として、後者には永遠の愛を誓った恋人として(誓うこととそれを守ることはまた別ですが)。自業自得かどうかは別にして、その未熟さ、不完全さゆえに虐げられている存在に対する共感と、ともに闘おうとする心(これが愛でなくて何でしょう)を感じるのです。

女性への愛、そして映画への愛がもっともストレートに表現されたのが「アメリカの夜」(http://purple.ap.teacup.com/gotomovie/66.html)だったと思います。そこではトリュフォーは自分自身のような映画監督を演じてもいますが、彼の演技は「未知との遭遇」で証明済み。正直、「遭遇」は彼抜きではあのような秀作たりえなかったと思わせるほどでした。

まだまだ今後の活躍が楽しみだった彼の死で映画はまたひとつ愛を失ったでしょうか。