覚醒者 | 墜落症候群

墜落症候群

墜ちていくというのは、とても怖くて暗いことのはずなのに、どこか愉しい。

 覚醒者の噂は知っていた。ヤツらに強制的に操られる傀儡。
 しかし、加奈枝はそんなもの自分は無縁だと思っていた。
 そんなの交通事故に巻き込まれるようなもので――そんなのネガティヴな宝くじに当たるようなものだ。
 加奈枝はぼーっと生きていた。
 世界を憎むほどに不幸ではなかったが、しかし生きていることを幸いに感じるくらいに望まれた人生を過ごしているわけでもなかった。
 夕方と夜の中間、加奈枝はあてもなくぶらぶらしていて、そろそろ帰るかとコンビニに一度立ち寄った。その帰り道のことだった。
 突然、背骨が赤熱した。
 加奈枝は雷に打たれたのかと錯覚した。
 そうとしか考えられぬほどの衝撃と苦痛だったが、しかし、周囲には何の予兆も変化もなかった。
 世界は平然としていて、加奈枝だけに絶望を押し付けていた。
 そのコントラストに加奈枝は強い憤りを感じた。なぜ自分だけがこんな痛みを突然与えられなければならないのか。
 その理不尽への反感が加奈枝を満たした時、彼女の右手を一瞬バグのように黒い水晶体の連なりが覆った。次の瞬間には加奈枝のその手にはナイフが握られており、息をするように彼女は腕を持ち上げ、水平に凪いでいた。
 それだけで、終わっていた。
 迸る鮮血。
「――え?」
 呆然とする加奈枝だったが、彼女の振るったナイフはたまたま偶然傍を通りかかっただけの小太りの中年男性の頸動脈を掻っ切っていた。
(私、まさか今、人を殺したの?)
 自分の仕出かしたことが信じられない。しかし、そんな彼女の気持ちを置き去りにして、ふらふらと加奈枝の足は勝手に前へと進んでいた。
 脇の路地を入り、古びた一軒家の前で足を止める。
 チャイムを押す。二度、三度と何度もチャイムを押す。押している間、加奈枝の顔には歪んだ笑みが浮かんでいる。もう何一つ身体は加奈枝の自由にはならない。
 その内、怪訝な顔をした老婆が出てくる。
 獣じみた速度で近付き、老婆の身体に何度もナイフを突き刺す。悲鳴を上げる前に老婆は息絶ええる。
 加奈枝は土足で家へと踏み込んでいく。
 そこには一家団欒の夕食風景がある。
 赤に染まったナイフを持った加奈枝に、一同は一瞬だけ唖然とするが、次の瞬間には父親は怒りと恐怖の雄叫びを上げ、加奈枝の方に向かってくる。母親は悲鳴を上げながら我が子を庇うようにその身体で覆い隠す。
 肩からぶつかる父親の突進は加奈枝の骨を砕く威力だが、加奈枝を操る存在は一瞬も萎縮せず、父親の頸動脈を掻っ切っている。加奈枝はもう既に短時間で二人もの中年男性の頸動脈を切り裂いていることに現実感の強い喪失を感じる。
 そうしている間にも加奈枝の身体は母親へと近付いている。父親があっさり殺されたことで恐慌に陥った母親は「この子だけは、この子だけは」と狂ったような悲鳴を上げている。
 加奈枝の身体は躊躇せず我が子を庇い丸まった母親の背中を何度も突き刺す。最初は熱く流れ出た血の勢いも、やがて衰える。
 そして、加奈枝の腕は冷酷にも母親の身体の下から子供を引きずり出す。
 子供は心を喪ったかのように静かで、それを見た加奈枝の心がようやく叫びだす。
 現実感の喪失を乗り越え、子供を殺すのだけはやめてくれ、それだけは耐えられないと心の中で訴えかける。
 やがて、加奈枝は言葉だけは自分の自由にできることに気付く。
「もうやめて……許して。この子を私に殺させないで」
 しかし、言葉には何の意味もない。
 歪んだ笑みを浮かべたままに、ぼそぼそと紡がれる加奈枝の必死の言葉は、少しも加奈枝の身体を止められない。
 ナイフは一突きで子供の心臓を食い破る。鮮血が吹き上がり、加奈枝は自分が壊れたのを感じる。
 加奈枝の決定的なものが損なわれてしまった。
 だけど、これは終わりではない。
 それはただの始まりに過ぎなかった。
 加奈枝は損なわれ続ける。