聖書を読むにあたり、私は今までとんでもない勘違いをしていたかもしれない。






神様やイエス様への信仰心を持てたことは
自分の力ではなく
恵みであり賜物であり、聖霊による大変ありがたいことだと思ってます。






そして、いままで
信仰心を持てたから
福音を信じることができたから
天国に行けるのではないかと期待をしていました。







有名なハーベストタイムの中川牧師も
確かこのスタンスだったと思います。









しかし







本当に信じるだけで天国に行けるのでしょうか??









聖書にはこう書いてあります。





(長文注意!ここからはお時間のある方のみ、お読みください。)




以下


 



 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか

 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、

「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」

と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。

それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

 さらに、こう言う人もあるでしょう。

「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」

 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

 ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。

 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。

あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、

「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」

という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。

(ヤコブ2章15-24節)

 


信仰義認の教理だけでは聖書理解は不十分です。聖書は人の信仰は行いによって表されるのと伝えています。

 







(エペソ教会宛)

 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう(黙示2章5節)



(ペルガモ教会宛)

 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。(黙示2章16節)



(サルデス教会宛)

 「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。(黙示3章2-3節)



(ラオデキア教会宛)

 「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。(黙示3章15-19節)



 とても目立つのは「悔い改めなさい」と「行い」という言葉です。現在の教会では、「行い」よりも「信仰」の方に重きが置かれていますが、天の御国では、信仰による救いは当たり前なのですが、各自の地上での「行い」によって報いがあると伝えています。



 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。

 というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。(第一コリント9~15節)



 信仰は聖霊のみわざです。そこからは各人の信仰によってなされた行いです。神は終わりの日にそれを評価してくださるというのです。



 また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。
「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。

 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」

(黙示録 19章6-8節)



 信仰は行いによるものではありません。聖霊によるものだからです。しかし、信仰を得てからの行いは、愛の問題です。
各人のキリストへの愛と信仰は「行い」によって表されるのです。ですから、信じた後の行いも関係ないから罪を犯しても大丈夫と教えるクリスチャンは、聖書を読んでいないか、自己中心的な解釈をして、背教を信じている人です。



 彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」

 見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。(黙示録22章10-15節)



 恐ろしいことですが、たとえ信仰告白をした者であっても、主の御名によって奇跡や預言を行ったような有名な人であっても、「神のみこころ」を行おうとせずに、「不法」を悔い改めずに続けていたら、主は厳しくさばくと警告しているのです。



 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。

 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7章21-27節)



 たとえ癒やしの賜物を持つような人でも、それは御霊の行い(わざ)であって、その人の信仰が主に認められたから、賜物が与えられた訳ではないとのです。
すごい賜物を持っている人でも罪を犯して堕落していくことがあります。なぜ神のみこころを知っていながら、行おうとしなかったのでしょうか。
それは主人を愛していなかったからです。
主人よりも愛するものがこの世にあったからです。キリストを愛する人は、キリストを喜ばせようと御霊に従い、罪を離れて、「神のみこころ」を行おうと、自らを聖くしようと努力するはずです。
しかし、神よりもこの世を愛している人は、神の愛よりも悪魔の言葉を選んでしまうのです。あなたを愛して下さったキリストを、あなたが愛するのなら、そのキリストの愛に応えて、あなたも神のみこころを行いたいとは思いませんか。それが花婿キリストを想う花嫁教会のあるべき姿です。


引用終わり












悪霊どもでさえ、神様は唯一であると信じています。
信じるだけでは天国に行けないことは、聖書にこんなにも明確に記されています。
神様は行いもしっかり見ています。



私は今まで行いが伴っていなかったことを悔い改めて、
隣人を自分のことのように愛し
困っている人を助け、
神のみこころを行うよう
努力して生きようと思いました。








長文すみません、
私としてはかなーり重要な気付きでしたので
共有まで。