『十戒のひとつに,「父母を敬うべし」というのがある。小さい子供にとって,これは自然でやさしいことであるが,年をとるにつれて「父母を敬うべしの解釈はむずかしくなる。いったい「敬う」とは,どういうことだろうか。』
w・エヴァレット 生きること愛することより
親の悪口をいう子には萎える,というのはいまをときめく作家さんの言葉だが,悪口はよくないが,今ほど,親が親らしくない時代というのはあったのだろうか。
昔だって子を売るとか間引きとか貧困によって,またはなんらかの破綻によってあったというが,
いまは,ことばの暴力やからだの暴力,そして殺してしまったりするのである。
萎える,というのはまさか欲望が萎えるのではないだろう,気持ちが萎えるということだろうか,(そう信じたい)悲しい。
作家という人が,このような時代に一面的な表現をして,人を封じ込めてしまうのは悲しいことだと思う。
できれば人を深く理解して欲しい,開放してほしいと思う。
綾香ちゃんは,やはり親にいのちを奪われていた。
もし,綾香ちゃんが生きていたら,大人になっていたら,結婚する年齢になったら,
親と彼の家族をひきあわすことが出来るだろうか。
果たしてあの,母親は結婚を許すだろうか。
あのような母は,わたしが思うに,少し年令を重ねエネルギーがなくなってきたとき男がいなくなったときに,ふと娘を見つめるのではないかと思う。けして観るのではなく,所有者としてながめるのではないかと思うのである。
自分で選んでいるはずの人生だが,なにか娘のせいでうまくいかなかったのだと,言いそうである。
そして,けして娘を愛していないが,執着の人となって,愛していると思いこみ伝え,娘を苦しめるのではないか
年老いた自分につくすことを求め,結婚をゆるさないこともあり得る。
娘に必要なことを与え,本当の幸せを求めさせ,,手放すことはないと思うのだ。
もちろん,結婚話しなど,幸福なほうだろう。
あのように育ち,娘が病むことも考えられるし,逆に,親を手にかけるかもしれない。
そういう経緯をたどらず,幸運にも結婚したいという話しになったとして,
うまくゆくだろうか。
娘の心労はいかばかりだろうと考えたりする。
考えすぎだとは思わない。
そんな時,親のことをうち明けたら,男は萎えるだろうか,
当惑することだろう。
しかし,愛していたら理解しようとするだろう。
乗り越えようとするだろう。
わたしは彼の親に会わせることが出来なかった。
せいいっぱい努力したが,ごねる母に手がつけられなかった。
ふん,わたし次第でこんな話しどうにでもなるんだよ,という言葉と姿勢。
なのに,彼の親とは善人の顔でつながろうとしていた。
わたしを心理的にはさもうとしているのだが,いつだって
気づいてはいなかった。
人は,いざというとき,人を助けるものだと思っていた。
友さえ,頼りにならなかった。
ふたりともわたしに執着し,所有したいと願った。
いまは,これで良かったと思ってる。
親にこれ以上,悪いことさせないっていう,そういう解釈もあるのじゃないか。
なぜか,ふと思う。
こういう親って,子供に憎む力を与えないんだよね。
不思議なんだけど。だから子ほのうが病むケースおおいんじゃないかな。
なんのことはないしょうもない親はいるのである。
聖書がなんと言おうと,仏典がなんといおうと。