たくさん泳いだ。

森がみえる場所。


それからお湯に入った。

3人のおばさんが湯に入っていたが,

いつまでもいつまでも話しながら

席を立たなかった。

湯に入るときは,席をタオルなどでとったまま

湯に入るのだった。


ぼんやりしていると,

なんとなくきれいなおばさんがいた。

カラダを云々するのは,おかしいのだが,

3人のおばさんが浮いていたので,

ちょっと,目にしてしまった。


普通のおばさんだけど,

ひそやかで,

おしりがあまりに引き締まっていて

胸がとてもとてもバラの蕾みたいにきれいだった。

ふと,男の人すきじゃないのかなって

失礼なことを思った。

友人のことを思いだしたのだ。


そんなことを思っていたら,

すぐ,生まれるばかりのお腹で女の人が

入ってきた。

ほー,こういうラインになるのか,

人によって違うだろうけど。





それは,それは美しかった。

ぱっと入っていってしまった。


ところで温泉に入ってよかったのだっけ。

効用のある所じゃないからいいのかな。


ま,目の保養にまりました。

だけど,どうか気を付けて~。

気分転換したいのだろうけど・・。

ここは,年配も多いが,こども達がいるので。




湯を出,休憩のできるエントランスに出ると

日暮らしが鳴いていた。

ちいさな場所が,セミの声に包まれているようだった。


無料のマッサージ機で横になって,

おっちゃんのように,うとうとっ,としてしまった。

マニュアルというかなんというか,以前の問題というか。

悲惨である。


最近,どこだったか忘れたが,温泉につかっていたとき,

手がずぼっと,底の排水溝?に吸い込まれた。

ものすごい力だったのでびっくりした。

あれは,やはり・・,はずれていたらどうなっていたのだろう。






普段バイトしていても,ほとんどバイトと派遣で構成されているのだが,

せめて長との間にリーダーが欲しい。


掃除をしないで仕事を開始する,はじまりの挨拶や,申し送りがない。

どこかバイトはバイトだしと思っているし,派遣は派遣と思っている。

ビールグラスが収めてあるしきりが,かびともつかず,どろどろなのを見つけ

せつないが,洗おうとすると抵抗にあうのだ(苦笑)。

そこに口をしたに収める。


あるバイトさんは早くはこべとか,こういう順番で運べとか,戻せとかいうが,

それも大事だが,そんなこと言っている間に,てめえが手伝って運べと思うし,

指示している間に洗えと思うし。

かびた部屋を拭いてはじめろと思う。


お互い気のつく場所は違うのかもしれないから

伝えあうことを許される場所,時間が欲しいものだ。


プロっていう言葉がいやだ,なんてエッセイもあったりして,プロってことば

あまりいい意味で使用されなくもなってきた。


のんびり事なきで仕事をするように気を使わなくてはならない。

もし,言われている以上の仕事をした際には,認められることもあるが,

へたをすると,一面的に神経質に見られるとか,あると思う。

いいじゃんていう雰囲気に水を差すこともある。

長がおびえることもある。


もうねえ,数回中毒出しているらしいんだけど・・,暢気なんだ。


ほんとうに誰かが亡くなってからじゃ遅いんだよね。

勇気をもたなきゃ,いけないんだよね。

勉強させてもらったと思う。



散歩をしていると,ひまわりの群生している場所があちこちにあった。

いつのまに?


ごく家のちかくの小さな畠のはじっこに,おおきなおおきなひまわりが独りいた。

わたしより背が高い。

みあげてあーんぐり,口をあけた。


おおきな顔。

ゴッホのひまわりだ。

ひまわりってこんな顔しているんだ。


小さなひまわりばかり見ていたので,おののきながら見上げ,

ひまわりさんは,わたしを見下ろしてる。


ハチがひまわりさんの顔にむしゃぶりついている。


そう,聖なる本がなんと言おうと。




「両親への尊敬と愛は直接,自己尊敬と自己愛へ結ばれる。しかし,実際は子供が両親を憎んでいることもある。自分が両親の子供であるという事実を変えることはできないが,子供はそうでなければよいのにと願うのである。その根本には,自分を拒否する態度がある。それは,両親のなかにある自分を拒否しているのである。ここが重要な点である。したがって,もし自分の両親を尊敬できないと感じたならば,信頼できる人に相談したほうがよい。」w・エヴァレット




ただ,この文章を読んだとき,確かにわたしに自己尊敬と自己愛が結ばれていないことを知った。

どんなに幸福を感じても足りないもの。

それは,ここにあるものだろう。

しかし,これはゆっくりとゆこう。

このことゆえにわたしは,表現することで大いなるものとつながり,親なるものを得ようと思っているのかもしれない。



『十戒のひとつに,「父母を敬うべし」というのがある。小さい子供にとって,これは自然でやさしいことであるが,年をとるにつれて「父母を敬うべしの解釈はむずかしくなる。いったい「敬う」とは,どういうことだろうか。』

       w・エヴァレット 生きること愛することより


親の悪口をいう子には萎える,というのはいまをときめく作家さんの言葉だが,悪口はよくないが,今ほど,親が親らしくない時代というのはあったのだろうか。

昔だって子を売るとか間引きとか貧困によって,またはなんらかの破綻によってあったというが,

いまは,ことばの暴力やからだの暴力,そして殺してしまったりするのである。


萎える,というのはまさか欲望が萎えるのではないだろう,気持ちが萎えるということだろうか,(そう信じたい)悲しい。

作家という人が,このような時代に一面的な表現をして,人を封じ込めてしまうのは悲しいことだと思う。

できれば人を深く理解して欲しい,開放してほしいと思う。



綾香ちゃんは,やはり親にいのちを奪われていた。

もし,綾香ちゃんが生きていたら,大人になっていたら,結婚する年齢になったら,

親と彼の家族をひきあわすことが出来るだろうか。

果たしてあの,母親は結婚を許すだろうか。


あのような母は,わたしが思うに,少し年令を重ねエネルギーがなくなってきたとき男がいなくなったときに,ふと娘を見つめるのではないかと思う。けして観るのではなく,所有者としてながめるのではないかと思うのである。

自分で選んでいるはずの人生だが,なにか娘のせいでうまくいかなかったのだと,言いそうである。


そして,けして娘を愛していないが,執着の人となって,愛していると思いこみ伝え,娘を苦しめるのではないか

年老いた自分につくすことを求め,結婚をゆるさないこともあり得る。


娘に必要なことを与え,本当の幸せを求めさせ,,手放すことはないと思うのだ。

もちろん,結婚話しなど,幸福なほうだろう。

あのように育ち,娘が病むことも考えられるし,逆に,親を手にかけるかもしれない。

そういう経緯をたどらず,幸運にも結婚したいという話しになったとして,

うまくゆくだろうか。

娘の心労はいかばかりだろうと考えたりする。

考えすぎだとは思わない。


そんな時,親のことをうち明けたら,男は萎えるだろうか,

当惑することだろう。

しかし,愛していたら理解しようとするだろう。

乗り越えようとするだろう。


わたしは彼の親に会わせることが出来なかった。

せいいっぱい努力したが,ごねる母に手がつけられなかった。

ふん,わたし次第でこんな話しどうにでもなるんだよ,という言葉と姿勢。

なのに,彼の親とは善人の顔でつながろうとしていた。

わたしを心理的にはさもうとしているのだが,いつだって

気づいてはいなかった。


人は,いざというとき,人を助けるものだと思っていた。

友さえ,頼りにならなかった。

ふたりともわたしに執着し,所有したいと願った。


いまは,これで良かったと思ってる。


親にこれ以上,悪いことさせないっていう,そういう解釈もあるのじゃないか。

なぜか,ふと思う。

こういう親って,子供に憎む力を与えないんだよね。

不思議なんだけど。だから子ほのうが病むケースおおいんじゃないかな。




なんのことはないしょうもない親はいるのである。

聖書がなんと言おうと,仏典がなんといおうと。