無になる瞑想

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瞑想のやり方を変えてみたら、

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境界線がとける、その先で


 

 

 瞑想という名の再起動(リロード)

 

瞑想、という言葉を明確に意識したのは二十代の頃でした。 

摂食障害という嵐がようやく凪いで、「生きる」ことにピントを合わせようとしていた、あの不思議な季節。

 

 

ある日の午後。 

何気なく床に横になり、小さな音楽に呼吸を預けてみたんです。 

 

 

すると、驚くほど静かに意識が深い場所へと降りていき、自分の輪郭が霧のようにほどけていきました。

 

 

「あ、体がなくなっていく」

その感覚を「心地よい」と思った瞬間。 

 

 

バチン!

 

 

火花が散るような勢いで目を開けました。 

 

 

私の視界が肉体を離れ、天井の隙間に嵌まり込んでいたから。

 

 

驚いて飛び退く猫のように肉体に戻った私は、それ以来「魂が抜けたらどうしよう」という怖さがブレーキになり、いつの間にか瞑想は、思考を忙しくさせる「妄想(イメージング)」の時間へと変わっていきました。

 

 

 

 

 「無」になるための、愛おしい回り道

 

 

それから長い月日が流れ、エイブラハムやマヤ暦に出会ったことで、私は再び「無」になる時間へと誘われます。

 

 

室外機の音や、蛇口から滴る水音……そんな、どうでもいい音をBGMにして、ただ呼吸を見守る。 

けれど、無になろうとするほど、まぶたの裏ではバグのような雑念が走り始めます。

 

 

あの時の「境界線が消える怖さ」を、思考を忙しくさせることで必死に誤魔化していたのかもしれません。

 

 

でも、ふと思ったんです。

 「難しいって思うから、難しくなるんだよね」と。

 

 

自分の中のブロックをせっせと解除しながら、基本の呼吸に立ち戻ってみると、一週間ほどでコツを掴んだ感覚がありました。

 

 

 

 

 身体が奏でる、熱と震えの「魔法」

 

 

深い集中に入ると、うなじのあたりからグワっと猛烈な熱が湧き上がってきます。 

それはまるで、身体というシステムの古いデータを焼き尽くすような、激しいエネルギー。

 

 

ある日は、左足がピクピクとホースに水を通したときのような振動を始めたり。 

右足のねじれが、内側からひとりでに解けていくような感覚があったり。 

 

 

ネットの知識では知っていたけれど、実際に肉体が勝手に「調整」を始めるのを見るのは、やっぱり何度経験しても面白くて、少し奇妙です。

 

 

イメージの中で旅をする瞑想と、ただ呼吸になり「無」になる瞑想。 

どちらが正解、というわけではありません。 

大切なのは、その瞬間の自分の「心の肌触り」に寄り添うこと。

 

 

正解なんてなくても、この「得体の知れない変化」が、今はとても愛おしいんです。

 

 

 

 ひとりごと

 

 

最近、お気に入りの植物に水をあげていたとき、葉っぱの先から水滴がこぼれるのをじっと見つめていたら、ふっと自分と植物の境界線が薄くなるような感覚がありました。 

 

 

「ただ、そこに在る」というコンマ数秒の『ホッ』

 

 

今、あなたの身体のどこかに、小さな「熱」や「震え」を感じる場所はありますか? 

 

 

そこに「不安」という名前をつけず、ただ、吐息の温度を感じながら見守ってみてください。 

もしかしたら、あなただけの魔法の書き換えが、もう始まっているのかもしれません。


 

 


 

 

マヤ暦☆鑑定士&講師
インドのakikoさん認定ライトワーカー講師

そよ プロフィール