☆心に響く優しさを感じる時☆



Toudai


本日は、久しぶりに心にフワッときたお話を読み、灯台繋がりからぜひこちらでもご紹介したいと思い、精神世界の鉄人さんのメルマガから掲載させていただきます。(許可ありです)

週刊誌「モーニング」に掲載されていたお話の概要とのことです。


以下転記です。


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これは「日本」と「トルコ」の感動的な実話の話です。

「エルトゥールル号の遭難 ~ 115年の時を超えて・生命の光から~」

和歌山県の南端に大島がある。その島の東には灯台がある。石造りでは日本で1番古い。明治3年(1870年)にできた樫野崎灯台。今も断崖の上に立っている。

びゅわーんびゅわーん、猛烈な風が灯台を打つ。どどどーんどどどーん、波が激しく断崖を打つ。
台風が大島を襲った。明治23年9月16日の夜であった。

午後9時頃、どどどかーん、風と波をつんざいて、真っ暗な海の方から音がした。灯台守は、はっきりとその爆発音を聞いた。

「何か大変なことが起こらなければいいが」

灯台守は胸騒ぎした。
しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、もう、何も聞こえなかった。

この時台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台の方に押し流されてきた。全長76メートルもある船。しかし、まるで板切れのように風と波の力でどんどん近づいている。

あぶない!

灯台がある断崖の下は「摩の船甲羅」と呼ばれていて、海面には岩がにょきにょき出ている。

ぐぅぐぅわーん、ばりばり、ばりばりばり。船は真っ二つに裂けた。

その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。この爆発音を灯台守が聞いていたのだった。乗組員は海に放り出され、波にさわられた。またあるものは自ら脱出した。真っ暗に荒れ狂海。どうすることもできない。波には運ばれるままだった。そして岩に叩きつけられた。
一人の水平が、海に放り出された。大波にさらわれて、岩にぶつかった。意識を失い、岩場に打ち上げられた。

「息子よ、起きなさい」

懐かしい母が耳元で囁いているようだった。

「お母さん」


という自分の声で意識が戻った。真っ暗な中で灯台の光が見えた。

「あそこに行けば、人がいるに違いない」

そう思うと急に力がわいてきた。40メートルほどの崖をよじ登りようやく灯台にたどり着いたのだった。

灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。顔から血が流れ、全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。灯台守は、この人が海で遭難したことはすぐわかった。

「この台風の中に、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」

と感嘆した。

「あなたの国はどこですか」

「・・・・・・・・・・」

言葉が通じなかった。

それで「万国信号音」を見せて、初めてこの人はトルコ人であること、船はトルコ軍艦であることを知った。

また、身振りで、多くの乗組員が海に投げ出されていたことがわかった。

「この乗組員たちを救うには人手がいる」

傷ついた水平に応急手当を押しながら、灯台守はそう考えた。

「樫野の人たちに知らせよう」

灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆けだした。電灯もない真っ暗な夜道。人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げた。

灯台に戻ると、10人ほどのトルコ人がいた。全身傷だらけであった。助けを求めて、みんな崖をよじ登ってきたのだった。

この当時、樫野には50軒ばかりの家があった。船が遭難したとの知らせを聞いた男達は総出でいわばの海岸に下りた。だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えた。目をそむけたるたくなるような光景であった。

村の男達は泣いた。遠い外国から来て、日本で死んでいく。男達は胸が張り裂けそうになった。

「一人でも多く救ってあげたい」

しかし、大多数は動かなかった。

一人の男が叫ぶ。

「息があるぞ」

だが触れてみると、ほとんど体温を感じない。村の男達は自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こした。自らの体温で彼らを温め始めた。

「死ぬな!」
「元気を出せ!」
「生きるんだ!」

村の男達は、我を忘れて温めていた。次々に乗組員の意識が戻った。船に乗っていた人は600人余り。
そして、助かった人は69名。この船の名はエルトゥールル号である。

助かった人々は樫野の小さい寺と小学校に収容された。当時は、電気、水道、ガス、電話などももちろんなかった。井戸もなく、水は雨水を利用した。さつまいもやミカンが取れた。漁業をして取れた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい生活だ。ただ島の人たちには、鶏を買っていて、非常食として備えていた。このような村落に、69名外国人が収容されたのだ。


島の人たちは、生まれて初めて見る外国人は、どんなことをしても、助けてあげたかった。だがどんどん蓄えがなくなっていく。ついに食糧がつきた。台風で魚業ができなかったからである。

「もう食べさせてあげるものがない」
「どうしよう!」

一人の婦人が言う。

「にわとりが残っている」
「でも、これを食べてしまったら・・・・・・」
「お天とうさまが、守ってくださるよ」

女たちはそう語りながら、最後に残った鶏を料理して、トルコの人に食べさせた。こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、丁重に葬った。

このエルトゥールル号の遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上された。
明治天皇は直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。
このことは、日本中に大きな衝撃を与えた。日本全国から慰安金が寄せられトルコの遭難者家族に届けられた。

次のような後日物語がある。

イラン、イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。イラクのサダム・フセインが、「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。

日本からは企業の人達やその家族が、イランに住んでいた。その日本人たちは、慌ててテヘラン空港に向かった。しかし、どの飛行機も満席で乗ることはできなかった。世界各国は自国の救援機を出して救出していた。

日本政府は素早い決定ができなかった。空港にいた日本人はパニック状態になっていた。そこに2機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。日本人215名全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。タイムリミットの1時間15分前であった。

なぜ、トルコ航空機が迎えに来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。

前駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。

「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学校のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは、子どもたちさえ、エルトゥールル号のことは知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」


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このお話を読み、日本人のご先祖様たちに感謝を伝えたくなりました。

このお話が素晴らしいのは、双方に思いやりの心を感じるからだと思います。


この文章を紹介してくださった精神世界の鉄人さんのコメントなどもとてもおもしろく、なるほど!!とワクワクします☆


他にも色々と面白い記事・エッセイなどを書かれておりますので、ぜひピンと来る方は彼のHPをご覧になってください☆


精神世界の鉄人さん