【 豊臣秀吉と私…PART③ 】
娘の一言で、岡山城に行く事になり、
岡山城に行った時に、
物悲しい…胸の痛みなどを感じ
その想いが岡山城の女城主の
『おふくさん』のものである事が分かってから『おふくさん』について調べていると…
私の住む岡山県北の真庭市にある高田城主☆
三浦藩の奥方さまだった事が浮上してきた…
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美作高田(勝山)城
岡山県真庭市勝山にある勝山城址。
真庭市は岡山県の北、北部の高原から南部の盆地まで
色んな風土と自然にめぐまれた町である。
宇喜多直家の後妻「お福」の出身地
お福の最初の夫が三浦貞勝で高田(勝山)城主であったが、備中成羽、鶴首城の三村家親に攻められ落城。
貞勝は自刃。
「おふく」は逃げ延びその後宇喜多直家の妻となる。
岡山城主になる宇喜多秀家は直家とお福の間にうまれた子。
高田城(勝山)は標高322mの如意山に本丸があり、
如意山標高322mに本丸を、太鼓山標高261mに
出丸を置いた。出丸を勝山と呼んだ。
これを総称して高田城と名づけた。
高田城初代城主三浦貞宗は、関東三浦氏の後裔といわれ、室町時代以降、美作の真庭・大庭の二郡を領地として、
11代続いた。
第10代貞久が天文元年(1532)に城主となった頃、戦国時代を迎える。
西美作の軍事交通上の要衝であったため山陰の尼子氏、
備前の宇喜多氏、安芸の毛利氏が進攻してくる。
10代貞久が病没したのち尼子勢の攻撃を受ける。
11代貞勝は幼少で城を脱出して落ち延びる。
高田(勝山)は初め山陰の尼子氏が、高田城を占拠12年間支配した。やがて尼子氏の衰退に伴い、備前・備中に雄伏していた三浦一族が高田城を奪取貞勝が再び城主となった。
永禄8年(1565)三村勢の急撃をうけ落城、
貞勝は自刃。
貞勝の正室「おふく」は息子をつれて逃げる。
「おふく」は三浦氏の庶族三浦能登守の娘で、
絶世の美人と言われている。この「おふく」は後に石山城主(岡山市丸の内)宇喜多直家の室となり秀家を産む。
これが岡山城を築城した宇喜多秀家である。
「おふくの方」は備中高松城水攻めで
岡山入りした羽柴秀吉に見初められ寵愛を受ける。
関ヶ原の戦い後秀家の身を案じた「おふくの方」は、
京都の円融院に入り円光院と名乗った。
群雄割拠の戦国時代「おふくの方」の美貌は
策士宇喜多直家をとらえ、秀吉をとりこにした。
「高田城(勝山)」説明板より
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岡山城のおふくさんが、私の住む真庭市の
高田城主の奥様で、旦那さまが亡くなって
逃げ延び、
そこで宇喜多直家に見染められ
岡山城主である宇喜多秀家を産んだなんて
驚きすぎる…!(◎_◎;)…
そして、その後
高松城の水攻めで訪れた豊臣秀吉に
見染められ寵愛を受けることも凄い流れ…
おふくさんが最初に結婚して住んだ場所が
私が結婚してすぐに10年以上住んでた
まさにその場所だったことに驚き
居ても立っても居られず…
おふくさんを偲んで、我が真庭市の高田城跡や武家屋敷…おふくさんの住んでた場所を思わず巡ることとなる…
( この真庭市での最初の結婚は
おふくさんにとって人生で一番、
穏やかな愛に包まれて幸せだった…って
記されてる資料を見る事も出来た )
なんとも言い難い想いが胸をよぎる…
そんな経験をした4年前…
そんな濃いご縁のおふくさんとの出逢い…
だから、織田信長でも、徳川家康でもなく
豊臣秀吉へと導かれる様になったのだった…
お城も歴史も全然☆興味もなく
全く以って無知だった私に
こんな情報が流れ込んでくる不思議…
奇しくも、4年後になる今回も
豊臣秀吉の所に行く事になった日に
岡山城と高田城跡、武家屋敷と
今回は、もう一つ増えて高田城主の菩提寺
『 妙円寺☆ 』にお参りしておくことを
ミッションとして伝えられ
事前に、その4箇所を訪ねた後に
おふくさんのエネルギーをまとい
豊臣秀吉の所へと訪れることになった…
今回…初めて高田城主☆三浦氏の菩提寺
『 妙円寺☆ 』を訪れ、手を合わせながら
時空を越えたおふくさんの時代と
私の生きてる令和の今を同時に感じる
不思議な感覚☆エネルギーを味わいながらの
お参りでした。
( 三浦藩の高田城に関わった皆さまの平穏と
現代の同じ土地、同じ場所に関わる皆さまの
平穏とお幸せをお祈りさせて頂きました。
そして、豊臣秀吉の所へ行くことのご報告 )
全ての準備を終え、改めての豊臣秀吉さんへ
逢いに行く久々の旅となるのでした…
つづく